俳人十湖讃歌 第91回 尊徳の遺品(15) 完
突然、何かが閃いたと見えて、腕組みを解き十湖の顔を仰いだ。
「預かった以上大切にするという保障がないから、異人が出てきたのではないか」
「わしは今の時点ではどうしてよいのか何も考えておらん」
「だから夢に出てきたのさ。さすがに尊徳の遺品だな」
授三郎は自分で答えを出し、力んで云った。
「何かよい手立てでも思いついたのか」
十湖は心配そうに聞いた。
「宗匠、こういうことにすれば良い」
「こういうこととは?」
「それには自らに条件を付け、後の世まで大切に保管することだ」
授三郎はそれ以上云わず、十湖に考えるきっかけを与えた。
三年後の明治三十年九月、十湖の自宅敷地内に小さな祠が建った。二尊堂である。
尊徳の遺品を納めて祀った。
二尊堂には、普段から香の煙が立ち上っていた。
その後二宮翁の三代の嫡孫である二宮尊親氏が、布教により十湖の庵に立ち寄ったことがあった。
鶴氅はじめ二宮翁の遺品を示したところ、尊親氏はこれらを拝して、いたく因縁の浅からんことを感じて云った。
「これは世が初見参の品、なお曾祖父に見ゆるがごとし、永く子孫に伝えて曾祖父の霊をつぶすことなかれ」と。
(参考)
この逸話は明治38年頃弟子の鍋田氷村が十湖の口述筆記によって残したものを参考にしたのでほぼ事実に近い。しかもその鶴氅(鶴しょう)は現在も小田原市の報徳博物館に飾られている。
報徳博物館の常設展示室に開館以来飾られている「鶴しょうの羽織」は、丈が95.7センチ、幅が130.1センチ、やや青みがかった灰白色で、いつ見ても高い格調を感ずる名品である。当時の展示説明にはこうあった。
‥‥ 尊徳が相馬侯から拝領したもの。江戸時代の鶴は、将軍や大名の専有物であったから、その羽毛で作った外被、つまりこの鶴しょうはたいへん格調の高いもので、普通の人では目にすることもできなかったのである。尊徳はその拝領品を、郷里栢山の岡部家へ贈った。18歳の時、伯父万兵衛の家を出て、まず厄介になったのが、当時名主だった岡部善右衛門の家であったから、その恩義に報いるために当主伊助に贈ったのである。(完 )
(現在の展示説明)