10尊徳の遺品

正月なのに自宅の玄関先には棺桶が置かれている。そこに見知らぬ来客が渡したいものがあるという。何やらいわくがありそうな。

2023年2月25日 (土)

俳人十湖讃歌 第91回  尊徳の遺品(15) 完

 突然、何かが閃いたと見えて、腕組みを解き十湖の顔を仰いだ。
「預かった以上大切にするという保障がないから、異人が出てきたのではないか」
「わしは今の時点ではどうしてよいのか何も考えておらん」
「だから夢に出てきたのさ。さすがに尊徳の遺品だな」
 授三郎は自分で答えを出し、力んで云った。
「何かよい手立てでも思いついたのか」
 十湖は心配そうに聞いた。
「宗匠、こういうことにすれば良い」
「こういうこととは?」
「それには自らに条件を付け、後の世まで大切に保管することだ」
 授三郎はそれ以上云わず、十湖に考えるきっかけを与えた。

 三年後の明治三十年九月、十湖の自宅敷地内に小さな祠が建った。二尊堂である。
 尊徳の遺品を納めて祀った。
 二尊堂には、普段から香の煙が立ち上っていた。
 その後二宮翁の三代の嫡孫である二宮尊親氏が、布教により十湖の庵に立ち寄ったことがあった。
 鶴氅はじめ二宮翁の遺品を示したところ、尊親氏はこれらを拝して、いたく因縁の浅からんことを感じて云った。
「これは世が初見参の品、なお曾祖父に見ゆるがごとし、永く子孫に伝えて曾祖父の霊をつぶすことなかれ」と。

(参考)
 この逸話は明治38年頃弟子の鍋田氷村が十湖の口述筆記によって残したものを参考にしたのでほぼ事実に近い。しかもその鶴氅(鶴しょう)は現在も小田原市の報徳博物館に飾られている。
 報徳博物館の常設展示室に開館以来飾られている「鶴しょうの羽織」は、丈が95.7センチ、幅が130.1センチ、やや青みがかった灰白色で、いつ見ても高い格調を感ずる名品である。当時の展示説明にはこうあった。
‥‥ 尊徳が相馬侯から拝領したもの。江戸時代の鶴は、将軍や大名の専有物であったから、その羽毛で作った外被、つまりこの鶴しょうはたいへん格調の高いもので、普通の人では目にすることもできなかったのである。尊徳はその拝領品を、郷里栢山の岡部家へ贈った。18歳の時、伯父万兵衛の家を出て、まず厄介になったのが、当時名主だった岡部善右衛門の家であったから、その恩義に報いるために当主伊助に贈ったのである。(完 )

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(博物館に所蔵の鶴しょう)

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(現在の展示説明)

 


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2023年2月22日 (水)

俳人十湖讃歌 第90回  尊徳の遺品(14)

 授三郎は十湖とともに遠州に報徳社を創設した同士であり、かつ報徳活動の先輩であった。
 もはや十湖には辞する理由はなかった。 
 結局、十湖は岡部善右衛門が持参した尊徳の遺品のすべてを、譲り受けることを承知した。
 以来、松島家の什物となったのである。
 年始の客が帰ったあと、十湖は少し心細くなった。
 とんでもないものをもらってしまったと、後悔したところで後の祭りである。
 いくら自分が尊徳の偉業を後世に伝える努力をしているとかいっても、岡部から貰ったとなれば単なるたらい回しで手に入れたに他ならない。
 その夜、十湖は不思議な夢を見た。
 岡部が言ったのと同じ白い着物を着た人物が夢に現れたのである。
 姿は老婆のようだが表情は全く見えない。
「お前はいったい誰だ。なんの用がある」
 十湖は夢の中で問いかけた。その人は何かを訴えているようにもみえた。
 何度か十湖がおなじことを繰り返し問いかけた。
 返事は聞こえてこない。
 翌朝、授三郎に夢の話をした。
「昨夜は妙な夢を見たぞ。岡部善右衛門が言っていたような、髪を振り乱した白装束の老婆が現れた」
 十湖は眠そうな眼で、授三郎に説明した。
「大体こういう話は、そんなところがおちさ。思いつめて寝るものだからそんな夢を見る」
「わしもそんなはずはないと思っていたが、譲られた品物が気にかかっていた性もあろう」
「ううむ」
 授三郎は腕組をしながら唸った。
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(小田原市 報徳博物館内 尊徳の遺品が展示されている)



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2023年2月17日 (金)

俳人十湖讃歌 第89回  尊徳の遺品(13)

 五年後の明治三十年十一月十四日、懸案だった今市の報徳二宮神社が落成、鎮座式が行われる。
 鎮座式に臨んで十湖は

     大御代の光りぞ今日の宮遷し

 と句を認めた。
 落成式終了後、十湖は宮司の関根友三郎宅に宿泊し、夜を徹して二宮翁を語り合った。
 十湖が短冊に一句を認め差し出したところ、それを読んだ関根氏がいたく感激し、あらためて句碑の建立を要請された。
 無上の光栄と感涙した十湖は

   明安し我も一夜の御墓守

 と大書してして奉納したのだった。
 
 十湖邸の年始の客もだいぶ減ってきたようで、弟子たちの会話だけが室内に響いている。
 善右衛門と十湖の二人は押し問答のあと、ずっと黙ったままであった。
 この様子を見ていた松島授三郎は、見るに見かねてそばから口を出した。
「今の世を見るにつけ、誰が尊徳の遺品を守るというのだ。宗匠を捨てては他にはいない。霊夢のお告げこそ二宮翁の言葉であり、どうして断ることができようか」
 いつになく厳しい口調で十湖を説得した。
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(小田原市 報徳神社内にある尊徳の像)


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2023年2月14日 (火)

俳人十湖讃歌 第88回  尊徳の遺品(12)

 明治二十四年、尊徳に従四位が追贈されたことをきっかけに、報徳社の人々の間に、尊徳を祀る神社を創立しようという動きが高まり、十湖もその一人として運動を始めた。
 そうした中でも、いち早く相模の国報徳社社長福住正兄、遠江の国報徳社社長岡田良一郎、駿河の国東報徳社社長牧田勇三の三氏は、遠駿相報徳社社員総代として、野州芳賀郡物部村櫻町へ報徳二宮神社建立を実現させようと、国に対し請願をした。同年十月のことである。
 運動の盛り上がりもあったせいか、すぐさま同年十一月には許可が出た。
 ところが各地の報徳社員は、この案では地理が不便であってよろしくない。しかも、報徳社員の幹部連中の一存で決めて出願したことに不満を表明した。
 その先鋒が十湖その人であった。 
 今度は自らが七カ国の報徳社総代を集め協議をしたところ、翌年三月に今市と小田原の二箇所に神社を建立しようと決定した。
 しかし、既に櫻町への創建が許可されているため、この指令を取り消す必要に迫られた。
 同年八月十五日、十湖は報徳社員一万人の総代として内務省に取り消しを願い出た。
 時の内務大臣は品川弥二郎、辞任間直の接見であった。
 このとき、併せて「報徳二宮神社創立願書」を提出した。
 各地の総代とともに、岡田社長の筆頭名で出願し、直ちに許可を得たのである。

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(小田原市 二宮神社)


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2023年2月11日 (土)

俳人十湖讃歌 第87回  尊徳の遺品(11)

「待て待て、譲るべきはわしではなくて掛川の岡田良一郎ではないのか。この男の方が相応しいと思うがそれは調べたか」
「もちろん、調べさせていただきました。現在、遠江報徳社の社長として活躍しています。ですが彼の業績は、事業経営に着手し農業振興のためにはなったでしょうが、純粋に農民を組織し、報徳仕法をもって農事改良を果たしてきた十湖様等の活動とは違います」
「そう云って頂けるのは嬉しい。だが遠州の報徳運動の元祖は岡田らだ。わしは彼等をおいては居ない。だから受取るわけにはいかん」
「いやそれは困ります。是非に受け取っていただきたい」
 岡部は頭を畳に擦り付け、繰り返し懇願した。
 十湖は相変わらず頬杖をついたまま、じっとして岡部の云ったことを反芻していた。
 しばらく二人の間に、沈黙が続いた。

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(現在の掛川報徳社)


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2023年2月 8日 (水)

俳人十湖讃歌 第86回  尊徳の遺品(10)

「それが私の代になりまして、以前から重なる不慮の禍に、家運は昔のように豊かになりません。果てはその日の家計にも窮するあまり、心ならずも家宝の鶴氅を金に代え、一時の困窮を救おうとしたことがありました」
「それはいかん。尊徳翁が怒って夢枕に立つかもしれない」
「ですが譲るべき人は西の方というだけでは、一体どこの誰だかわからないし途方にくれておりました。それで親族と相談したところ人から人に夢の話が伝わって、西に松島十湖ありと思い当たったのです」
「今、目の前にいるのが当の本人だが、いったい何処に鶴氅を譲られる資格があるというのか」
 十湖は先ほど来、冗談半分で聞き入っていたものの、自分の名が口にされて狼狽した。
「十湖様の報徳の教えに功労が多く、二宮翁の終焉の地たる野州今市、半生の活躍の地相州原に於ける報徳二宮神社の創建をはじめ、自費をもって肖像を刻し遺訓を彫り、誕生の地には建碑も予定していました」
「この程度のことは、報徳社の社員なら多かれ少なかれ実践しているはずだ」
「それはご謙遜というものです。これまで風の便りで十湖様の偉業が伝わってきたのです。俄かに旅装を整え箱に秘めたる鶴氅を携え、さらに先先代から伝わる二宮翁直筆の紙数通と‥‥
 ふる道につもる木の葉をかきわけて  天照る神の足跡を見ん‥‥

 と詠じられた翁の三十一文字を添え、十湖様の七十二峰庵に向かったところ、浜松の地へ近づけば近づくほど、ますます報徳の偉業の数々が聞こえてまいりました。ぜひともお受け取りいただきたいのです」
 十湖は受け取れば後の世まで大切に保管しなければならないし、今の自分が持てる立場にあるのか不安があった。
 十湖は頑なに辞退を申し入れた。

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(今市市 尊徳の墓)


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2023年2月 4日 (土)

俳人十湖讃歌 第85回  尊徳の遺品(9)

岡部善右衛門は積もる話を続けた。
「二宮尊徳翁はかつての師である、初代岡部善右衛門に礼をしようと思い立ちました。墓を清掃後は直ちに両掛けに戻し、元の羽織を着たそうです。後に尊徳翁は故郷栢山の里にて岡部善右衛門を招き、再び相馬公から恩賜の鶴氅をとり出し、そのいわれを詳しく述べ、永く家の宝として欲しいと贈られたのでした」
「すると岡部家ではこの後から家の什宝となったわけだな」
「そのとおりです。しかし、時が移り三年前の明治二十四年、早くも岡部家三代を経て祖父の名をそのままに襲用した私、善右衛門に不思議なことが起こりました。一夜の夢に一人の異人が現れました」
「なんと異人が夢に現れたというのか」
 なんだか作り話のような話になってきたと、十湖は机の上に頬杖をついていた。
「夢の中の異人とは、髪を振り乱した白装束の老婆で
  ―この家に久しく保管されたる鶴氅があろう。何ゆえこの家にあるのか。このままでは祟りがあろう。速やかにしかるべき人の手に譲るべし。その人はこれより彼方にあり、ゆめ忘れるなよ― と西方を指差したところで、夢から覚めたのです」
「夢の中の異人とは、まさか鶴の化身ではないだろうな」
 一段と怪しい話になってきたので、十湖は冗談を交えて云ってしまった。
 そろそろ話を切り上げたほうがよいかなと思った。
Waraji

 


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2023年1月31日 (火)

俳人十湖讃歌 第84回  尊徳の遺品(8)

「その鶴氅が本日持って参った遺品です」
 岡部善右衛門は畳まれた鶴氅の羽織を十湖の膝元へ丁重に差し出した。
 色はやや青みがかった灰白色で、思わず十湖は格調の高い存在感に感動していた。
「これはすばらしい。だが、なぜに尊徳翁が貰ったはずのものを、岡部善右衛門殿の手元にあるのか」
「私のところに鶴氅が来たのはずっと後の時代で、祖父岡部善右衛門の手に渡ったのが最初です」
「すると今の善右衛門殿は同じ名で三代目ということか。何をして生計をたてていたのか」
「初代の岡部老翁は土地では名高い算学者でして、尊徳翁の壮年時代に於ける算学の師でありました」
「それが尊徳翁と岡部善右衛門殿との接点なのか」
「そうです。祖父が云うのには相州足柄に戻った尊徳翁は、菩提所である善榮寺に詣でて、累代の墓を清掃したといいます」
「出世した人物に限ってやることだ。まあ何処にでもある話だ」
 十湖は鼻を鳴らして云ったが、岡部はそんな態度は気にもせず、話を続けた。
「尊徳翁が故郷に飾る錦にふと思いついたのは、相馬候より献上の品鶴氅でした。早速肩に掛けていた両掛から恭しく取り出し、着ていた羽織と取替え、鶴氅を身につけ再び墓を清掃した時でした」
 十湖には翁が錦を飾るとはいえ、何も鶴氅でなくてはならぬことではないはずだがと疑念を抱きづつ、いつの間にか話しに聞き入っていた。
 しばらくして十湖が、ふと我に立ち返ったとき、庵の騒々しさが戻ってきたのを覚えた。

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(写真「奇人俳人松島十湖」より)

 

 


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2023年1月27日 (金)

俳人十湖讃歌 第83回  尊徳の遺品(7)

 一七八八年に起きた天明の飢饉は、相馬藩の人口が三分の一になるという壊滅的な被害をもたらした。
 四〇年を経て以来、藩の財政の立て直しは未だ達成できないでいた。
 ところが相馬の窮状とは相反し、周辺の諸藩は既に二宮尊徳の指導を仰ぎ、六〇〇の藩で復興が成功している状態にあった。
 この手法を地元では御仕法と呼んでいた。
 これを見た相馬藩主は、新たに藩の中枢に尊徳の仕法を知る富田高慶等を加え、一八四五年から相馬中村藩で『二宮仕法』の導入で改革を始めた。
 やがて、御仕法は相馬藩の理解のもと、藩の一大事業として積極的に推進していった。
 だが、二宮尊徳自身は相馬の地を訪れることはなく、尊徳の弟子であった富田高慶が二宮尊徳の代理として指導にあたった。
 その結果相馬家には巨万の債があったにもかかわらず、それを償い、財を成すことに成功した。
 結局、改革は遅かったが諸藩の中でもっとも理想的に導入し、効果をあげたのは相馬藩だったのである。
 相馬候は折に触れて尊徳に褒章を与えようとして、その機会を企てていた。
 褒章の品は衆目の的である鶴氅と決めていた。
 一年後古希以上の臣下を集め、宴を開くことになった。
 相馬候はこの時とばかり、自らが愛用していた羽織の鶴氅を尊徳の前に差し出し、これまでの尊徳の功労こそ持つに相応しいとして、皆の前で与えたのである。

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(東海道線愛野駅前にある二宮尊徳の像)

 


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2023年1月23日 (月)

俳人十湖讃歌 第82回  尊徳の遺品(6)

向かい合った岡部と十湖は、茶をすすりながらお互いの顔を改めて見つめて
「十湖様、この度は突然の来訪で大変ご迷惑をおかけしました。私は居ても立ってもいられなくて行動に移してしまいました。本来なら、手紙にてご了解を得てから参上するのが筋だとは思いましたが、その余裕を持ちませんでした」
 岡部は繰り返し来訪の無精を詫びたが、十湖は気にかけることなく頷いていた。
「鶴氅をご存知でしょうか。二宮翁の遺品のひとつですが」
「存じて居る。翁にとっては家宝であったはずだ。江戸時代の鶴は将軍や大名の専有物であったから、その羽毛で作った外被、つまり、鶴氅は大変格調が高く、普通の人では目にすることもできなかった」
「そのとおりです。その鶴氅をお持ちしたので十湖様に受け取っていただきたいのです」
「何ですと、それが今日来訪の目的だったのか」
 十湖にとって、それは夢のような話だと思った。
 恐れ多くも自分の尊敬する人物の遺品である。
 なぜ、ここに持ってきたのさえ理由がわからないのに、そう簡単に受け取れるしろものではない。
 本物かどうかも不明だった。
Turu131


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