鈴木藤三郎

2023年9月 9日 (土)

俳人十湖讃歌 第122回 東北漫遊(11) 帰庵

 後で知ったことだが、白木屋には実業家鈴木藤三郎から滞在費として一千円の仕送りがあった。
 それにしても、鈴木藤三郎と比較すれば、実に十湖の強情我慢には驚くばかりと石倉は述懐している。
 聞くところによれば、この性格は母親の影響が大きかった。
  母親は非常に負けじ魂の強い人で、小間物類を背負い、商いをしては一生懸命稼いでいた。
 この境遇の間に育った十湖にとっては、貴賎の差別が甚だしかった時代である。
 微々たる小間物屋の倅に生まれため、村の者から軽んぜられる。
 それをしのんで仕事の合間には書物を読む。知らぬ文字は相手を選ばず聞いた。
 石倉は今回の旅で十湖の強情、この我慢、この利かぬ気は母親からもらった負けじ魂があったがために、この松島十湖翁ができたという事に考え及んだ。
 だからむしろ、美しい記念物として、貴み残しても良いと思った。
 後に石倉は記事掲載にあたり
 ――偉人にして俳名高く門人の数も万を数え、常に人の意表に出て常人に外れた行動が多い十湖を、人呼んで奇人という。まさにこれが十湖翁の翁所以なり
 と感慨に耽ったのであった。

 十湖の東北行きは帰路、東京の芭蕉ゆかりの地二箇所に句碑を建立し、同年四月下旬、東北旅行を終えて無事帰庵した。
 当時の新聞によれば次のとおり報じている。
 ――東北漫遊帰庵されし松島十湖翁の慰労会は、去る五月六日浜名郡笠井町不老館において、政治家、報徳家、俳諧家連有志主唱者となって開会せり。主催者総代丸尾秀敏が開会の趣旨を述べ、長田豊西学校長らの祝辞演説があり、次に松島十湖翁は漫遊の概況を兼ね答辞を述べ主客十二分の歓びを尽くし散会せしは午後十時頃なりしが
 地元での慰労会の参会者は三百二十余名、十湖は句を扇子に書して渡した。

   旅労れ雨の若葉にわすれけり

Wakaba

 

 (完)

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2023年9月 3日 (日)

俳人十湖讃歌 第121回 東北漫遊(10) 十湖素裸体になる

 老墓守は年のせいで墓の掃除もままならないと言いたいらしい。
 しばらくは三人揃って老人の話を聞いていた。
「これを香料の足しにしてくれ」
 側で聞いていた十湖はおもむろに懐中に手をやると、財布を取り出し渡してしまった。
ついで、着物の袖から腕から手を抜くと
「これはお前が着ろ」
 十湖は墓守のみすぼらしい格好に、自らの帯を解き襦袢一枚と腰巻だけになった。
 脱いだ紋付袴を老墓守に差し出し立ち去ってしまった。
 雪が降りだしそうな気配だというのに、十湖は身震いしながらホテルへと舞い戻った。
 この着物は十湖が東北旅行に行くのに着替えがないといって、鈴木藤三郎から借りたものだった。
 翌日の地元の新聞は”松島十湖翁素裸体となる”との大見出しで、この奇行ぶりを紹介する。
 三月十三日、一行は仙台滞在五日にしてやっと宇都宮に戻ってきた。
 いよいよこれで十湖との吟行も終わりである。
 石倉と青木の両人は、十湖への礼心で大宴会を開くことを決めていた。
 場所は十湖との歓迎送別を兼ねて、市中第一の武蔵屋という茶店である。
 十湖が東北行脚をしていることは新聞で報道され、いまや地元仙台、宇都宮では話題となっていた。それに「十湖宗匠素裸」の見出しの記事は、奇行奇人ぶりで一躍脚光を浴びてしまった。
 送別会を開くとの広告に、会する者は市中の名望家や、市会議員、弁護士ら百余名集ったのは当然の結果であった。
 ここで十湖は堂々たる俳諧演説を試み、そのあと大連座会となった。いずれも拍手しないものはなく至極上々首尾である。
 ところがである。出席者の一人が宗匠に対しちょっと無礼の口を利いたのだ。
 子平の墓における十湖の奇行振りを笑ったものだった。
 十湖にとって尊敬する人物は一に芭蕉翁、二に二宮尊徳、三に渡辺崋山、四に中江藤樹、五に林子平である。尊敬する人物を傷つけられたのである。
 これにはさすがに十湖は頭に血が上り、武蔵屋の宴果ててなお、約三時間も林子平の人物論に怪気炎を吐き続けた。
 石倉と青木の両人は夜中の二時近くになって、やっと十湖を白木屋へ送り届けた。

Kangeturo

 

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2023年8月31日 (木)

俳人十湖讃歌 第120回 東北漫遊 (9) 子平墓前

 翌日は仙台一の料理店對橋楼で書画会が催され、十湖が招待を受けて出かける事になった。
 地元紙が仙台に十湖が来ていることを掲載したことで盛会であった。
 ところが、行った筈の十湖がいつの間にか会場から消えてしまった。
 書画会側の接待方が癪に触り、その席をはずし勝手に外へ出ていったのである。
 主催者が探し回ったあげく、発見したときには名物の芸者のハットセ踊りを見物しながら、すでにご酩酊であった。
 ふりかえれば、仙台の地は記者石倉の案内で古跡を巡り、それなりに吟行を重ねることができた。
 有意義に時間を過ごしたはずであった。
 次の日の朝
「もう行くところがないか」
 十湖が石倉に訊ねると、すぐに返事が返ってきた。
「江戸末期の政治家林子平の墓があるがどうしますか」
「それはここから遠いのか。歩いていける距離かな」
「駅前から歩いて十五分ぐらいのところです。あまり訪ねる人もありませんがね」
 同行の青木も同意し、三人揃って旅館から歩いて向かった。
 ホテルは駅前にあるので、そこまではさほどの距離ではない。
 この三日間は、十湖のご機嫌ひとつで随分悩まされた石倉と青木であった。
 しかし、このころになると十湖の人となりがわかったようで、きつい言動にも尻おじすることがなくなった。
 ふと、空を見上げると雲行きも怪しくなり、今晩は再び雪が舞うかもしれないと思われた。
「墓のあるところはこの辺のようですね。」
 目的の墓所に着いたと思われたが、どこが子平の墓なのか。枯れススキなどの雑草が生い茂り、墓が判然としない。
「どうも墓守もいないようだ」
 不安そうに青木は十湖に向って云った。
 江戸時代の政治学者林子平といえば、世に先んじて開国を叫び海防の必要性を唱えた人物で、鎖国の時代に言ったばかりに罪人となった。一七九三年五十三才で幽閉されて病死し、当時は罪人のため墓は作らなかったが、やがて罪をとかれ甥によって建てられたという。
 十湖は墓が当然あるべきもので、静かに安置されているはずだと思っていたらしい。
 ところが、この墓の荒れ放題を見て怒り心頭、持っていた杖で地を叩き、泣きじゃくってしまった。
「どなた様か存じませんが、何をそんなにお怒りになっていらっしゃるのですかな」
 この様子を遠くで見守っていた八十歳を越える老墓守が、つっと近づき言葉丁寧に声をかけた。
「林子平の墓を訪ねてきたが、あまりの荒れ放題に言葉がありません」
 石倉が十湖に代わり頭を下げて事情を話した。
「それはごもっともです。時代が変わり、もはや林子平には民衆は目も刳れないのです。参拝者もほとんどなく線香代も事欠く始末です。私は子平を尊敬しているので、こうして毎日墓守をしておりますが。もう年ですからのう」

Hattose


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2023年8月26日 (土)

俳人十湖讃歌 第119回 東北漫遊(8)毒舌説法

 十湖は酒を追加注文し、飲みだしては、またしても気炎を吐き始めた。
 矛先は青木画伯である。
「わしの荷物を持って先に部屋へ帰っておれ。俳席は我らだけでやる。画家には用はない」
「何だと。画家のわしに向って邪魔だというのか」
 青木も酒が過ぎており、売り言葉に買い言葉になってしまった。
「そうだ。画家の分際で俳句の席に居るのは邪魔だ」
「まだ云うか。わしはれっきとした画人だ。分際ではないわ。青木様と呼べ。この俺に向かって失敬千万だ」
 もはや石倉の仲裁には入る余地がなかった。
 怒る十湖の顔も尋常ではない。
「様を付けろとな。様をつけるのは人に付ける尊称だ。ほんとに後の世まで呼ばれる人は世界広しといえど数指の人にすぎず。その中におまえは入るのか」
「そんな意味で云ったものではない。ただ呼びづてにするなというのだ」
 手が震えている。青木は持っていた茶碗を、思いっきり庭先へ叩きつけた。
 十湖がさらに続けて云う。
「いまだに後の世まで呼ばれる人物は、かのお釈迦様とか孔子様とかの数指の人にすぎず、これは他国のことだが。我が国においてはお大師様とか、芭蕉様とかはその数指に数えられる」
「うーむ」
 青木は大きくため息をついてうなった。十湖の説法は留まることを知らない。
「かつて井伊直弼が横浜のために尽くしたことを思い、横浜の豪商大谷喜兵衛が銅像を建設しようとしたことがあった。ところがこれを邪魔する輩が現れて、建設をやめれば勲四等に叙するとか甘い言葉で誘ってきた」
「それがどうしたというのか」
 怒りが収まりかかった青木が言葉をつないだ。
「云うまでもないが、大谷は少しも志を変えず、建設の業を終え故人の徳を称えた。だから大谷様とか嘉兵衛様とか言われたのだ」
 傍で聞いていた石倉も腕組をしながら聞き入っていた。
「同じ横浜の人で巨万の富を貯えた平沼専蔵という男がいたが、何ら徳もなければ金だけがすべてという人物だった。人呼んで平専という。いかに社会的地位の異なるを見よ」
 そのうち左手を腰に付け、右手は宙をつかんだ。まるで自由民権運動の壮士の演説さながらである。
「悪かった。つい感情で尊称をつけよと迫ったが、そんな意味はなかったのだ」
 少しずつ酔いが醒めてきた青木は小声で呟いた。
「くどいがもう一度云う。古きより虎は死して皮を残し、人は死して名を残すという。されどその名も清く、死後も多くの人より様なる尊称を付けられることこそ人としての本望なり。徳をつみ努力すれば誰しもその域に達することができるはずだ」
 酔っていても理路整然とした十湖の話に青木は舌を巻いた。
「なるほど、要するに人は財産を独り占めしないで、勤勉であれ、しかも公益になることは共同で一致して実践するというならば、徳をつんで努力すれば後の世で様の尊称で呼ばれることもあるということですね」
 酒に酔って詰まらんことでお説教を食らってしまったと、青木は頭を掻いて自らをなだめていた。

Soshi

(教科書に載る壮士像)

 

 

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2023年8月23日 (水)

俳人十湖讃歌 第118回 東北漫遊(7)仙台

 翌日は白木屋の言葉に甘えて予定を変更し松島へ向かう。
 松島観月楼に三日間滞在して、松島を残りくまなく遊覧していた。
 石倉の案内は上々の首尾であった。

   友三人松に千歳の契りかなし

 さらに海辺の海老屋に宿を換え、朝餉に出た魚を題に三人代わる代わる句を作った。
 同行者の不安をよそに、至極呑気に周辺を見物した。
 次の日仙台へ戻る。先日と同じ陸奥ホテルに泊まる。
 元来酒好きな十湖は旅館に着けばすぐ酒だ。ぐびぐびと引っ掛けては気炎を吐く。
「酒の相手が居ないわい。わしの知り合いを呼んで来い。この近くのはずだ。旅館の者に聞けばわかるはずだ。一っ走り行って来い」
 この日は酒が過ぎたのか記者の石倉に向かって命令した。
 まるで小間使いのごとく扱われる始末に、石倉はとうとう怒り心頭に発する。
「僕は今回取材で同行して来ているんだ。これでもれっきとした著述家だ。十湖がどれくらいえらいか知らぬが俺に向かって小僧扱いや小間使いとしかみていない。馬鹿にするな。そんな命令をするなら今夜は宇都宮まで歩いて帰る」
 石倉は立ち上がるなり、十湖の面に杯の酒を引っ掛け言い放した。
「ともかくも十湖翁は俳句の大先輩なのだから辛抱しろよ」
 画家青木がなんとか仲裁に入ろうと石倉を別室に連れて行き、肩をたたきながらなだめた。
 石倉が再び部屋へ戻ると、赤い顔をした十湖が徳利を掲げながら声を荒げた。
「呼んできたか」
 石倉は十湖の強情に負けて、しかたなく呼びに行くことにした。
 事前に来てくれるよう頼んであったのだが、松島へ行くことになり日程がずれてしまった。相手はもう忘れてしまっていたのだろう。連れてきたのは、この辺では名の知れた俳人の来仙という。
 その夜は旅館で俳席を開くことになった。
 三月だというのに名残の雪が降り出してきた。
 俳席は大いに盛り上がった。
Yuge

 

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2023年8月19日 (土)

俳人十湖讃歌 第117回 東北漫遊(6) 宇都宮

「明日からの行程ですが、一応確認をしておきたいと思います。社の方で示された内容を紹介します」
 石倉は十湖の顔色を見ながら云った。さらに続けて
「今回の吟行は、仙台での句会と書画会での取材を中心とするもので、後日、新聞社の企画記事として扱う予定です。予算はここより仙台までの旅費及び宿泊費を社で負担します。いいにくいのですが、十湖宗匠が出向いてきているのをこれ幸いと社が便乗するようで申し訳ありません。社の示した範囲内の予算で行くのでご協力をお願いします」
 石倉は恐縮して云いながら、行程表をポケットから取り出した。
「こちらでどうこう云うことではない。君に任せるよ。それより酒はまだかな」
 別段異議なしと言わんばかりに十湖は、酒の催促をした。
 酒が入ると青木は砕け話が弾んだ。
 得意の画で節分の鬼を描くと、十湖がほめて自ら俳文を書こうという。なんやこれやで話は尽きず、一同夜を楽しく語り明かした。
 夜明け方近くになって十湖は何かを思い出したように
「おい、今日は松島見物に行かないか。仙台まで行くのだからちょっと足を伸ばせばいい」
「社の予定は仙台市内です。行きたいのは山々だが、残念なことには我ら両人は貧しく贅沢な遊びをするほど金は持っていません」
 石倉が怪訝な顔で返す。
「両人で三十円くらいはできよう。足らんところは自分が出すから、たのむ」
 十湖は少し譲って、何としてでも行ける算段を掛け合った。
 両人はどうしたものかと思案していたところ、
「こんなに朝早くからどうしたんですか」
 白木屋の主人がやって来て、寝巻き姿の十湖に訊ねると
「今日は天気もよさそうだし、せっかくここまで来ているのだから芭蕉の足跡を訪ねてみたいと話していたところだ。」
 白木屋は既に大きな声で三人が言い合っているのを聞いていたが、あえて記者の石倉に小声で尋ねた。
「宗匠が芭蕉の足跡を訪ねたいというけど、皆さんは否定的なのですね」
「実は取材の金は知れている。見物するほど社は金を出してはくれないし、まして自分たちで工面せよといわれても困ると言ったのだ」
 石倉は白木屋の仲立ちで正直に会社の実情を話した。
「分かりました。それならせっかくここまで来たのですから、皆様ぜひお出かけなさい。旅費は私が全部持ちますから」
「それでは白木屋さんに迷惑がかかる」
 石倉は遠慮する仕草をした。
「いやいや申し訳ない。それじゃあ、お言葉に甘えて行くことにしよう」
 十湖はすかさず礼を云い、相談がまとまったことにして喜んだ。

   春嬉し旅から旅のこの首途

 まったくもって調子のよい十湖であった。
 同行の二人は後の不安を感じながら顔を見合わせていたが。
 この日のうちに宇都宮から仙台に移動。当初の予定どおり散策吟行する。泊まりは駅の近くの陸奥ホテルに決めていた。
 仙台へ着けば

   仙台に待つ春の夜は明けにけり

Yoake

 

 

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2023年8月16日 (水)

俳人十湖讃歌 第116回 東北漫遊(5)談合

 十湖は、藤三郎には句碑のほか二宮尊徳生誕の地の樟苗百株、観音菩薩の石像一体、自吟の碑石一基を寄贈した。
「鈴木氏が十湖翁からの贈り物を溺愛してくれれば、いつか翁の祠殿を造る時には木も大きくなり、きっと役立つだろう」
 出席者の一人山本湛翠が短い祝辞の最後に語り、会場の失笑と拍手を招いた。
 式典のあとは宴会となった。
 十湖は気を許してぐびぐびと酒を飲んでいた。
「それにしては随分と式には人が集まったものだ。藤三郎の人徳じゃ。わしだって自分の門人が一万人いるから、東京まで出てくると、どこにいても門人等に会うことができる」
 いつもの負けん気で鼻を鳴らした。
 宴がたけなわとなったころ、一人の若い男が十湖の前に徳利を持って現れた。
Yasiki
(藤三郎邸図)

 波瀾が起こることを予感していた藤三郎だったが、まさか今度は東北まで旅をしたいと十湖が言い出すとはいささか呆れ顔であった。
 昨日の式典後の宴会で、宇都宮の日日新聞記者と意気投合してそんな話になったようだ。
 十湖が言うには明日、宇都宮駅前の白木屋旅館で日日新聞記者の石倉翠葉氏と会う予定で、この旅館を中心に東北を吟行するという。
 だが、着の身着のままで上京してきてしまったので着ていくものがない。ついては何か貸してくれと十湖にせがまれた。
 翌日、宇都宮駅前の白木屋旅館に、真新しい着物を着た十湖の姿があった。
 白木屋旅館といえば東北本線が開通し宇都宮駅が開業した日に、初めて駅弁を作ったことで世間には知られていた。
 当時の駅弁はおにぎり二個にたくわんを添えたものだったが、評判はすこぶるよく経営上り調子の旅館であった。
 待ち合わせの会場へ新聞記者石倉がやってきた。
 二八歳になるが背広姿が落ち着いて見え、記者にしては眼が優しい。
 昨夜宴会の席で、十湖に今回の旅を提案してきた男である。
 今日は隣に連れが一人いるようだ。
「吟行には文章の書き手も必要だが画家も入用でしょう。そう思って画家の青木香葩(こうは)さんを同行してきましたが」
 石倉は初老の男を紹介した。
 男は六十歳に手が届く年齢かと思われる。髪は短く刈上げ所々に白いものが目立った。
 和服姿で手に画帳を提げて少しばかり腹が出て恰幅がいい。
 十湖にとって青木は初対面である。
    石倉が言うには画家としては地元で知らない者はなく、俳号を池畔亭葩笠といい俳句にも精通しているという。
 青木香葩は上州館林に生まれた容斎派の画家で青木翠山の養嗣。松本楓湖の弟子である。
 小林古径に歴史画を教えた画伯でも知られ、後に古径は文化勲章を受章している。
「旅は道連れ、これといって断る理由もなし」
 十湖は上機嫌で明日から三人で旅することに決めた。
「それじゃあまずは出発を祝って酒宴でもあげますか」
 石倉がそういうと、酒が来るまで車座になって部屋で待った。

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2023年8月12日 (土)

俳人十湖讃歌 第115回 東北漫遊(4)藤三郎私邸

 東京で泊まって三日目、鈴木藤三郎私邸での新築祝式に出席した。
 さすがに出世した男の邸である。
 東京小石川の工場隣地七千坪の広さの中に新築した。
 祝辞の席で十湖は、この東京の地でなぜ自分が句碑をあちこちに建てるのか力説した。
 その理由として自分が芭蕉の後継者であることを世間に知ってもらうことだ。
 二つ目は、二宮尊徳の報徳精神を今に生かし自らが信奉することを、世に残していきたいとの思いを披露した。
 ところで、今日の主役鈴木藤三郎は十湖とはいったいどういう接点があったのか話しておく必要がある。
 祝辞の中で報徳精神をとうとうと述べていた十湖だったが、鈴木との出会いはこの報徳の運動にあった。
 この時、鈴木藤三郎は十湖と七つ違いの四十五歳、遠州森町の出身で報徳社の社員である。
 氷砂糖の発明で財を築き、報徳仕法を実践し実業家として成功していた。
 明治二十八年には日本製糖株式会社を設立し、これから台湾へ進出し社長として活躍する矢先のことである。
 報徳を早くから学び実践した苦労が、この実業家として成功する結果をもたらした。
 時代は遡って安政二年(一八五五年)十一月十八日、遠州森町太田文四郎とちえの末っ子として誕生した。
 幼名を才助といい、四歳にして同町菓子商鈴木伊三郎の養嗣子となる。
 好奇心が強く勉強好きで家業の菓子製造を手伝っていたが、十九歳の頃、友が独り立ちしていくのを見て、自らを奮いたて一獲千金を夢見ていた。
 明治七年、家督を継ぎ藤三郎と改名し製茶貿易を目指して開眼した。
 この時、報徳に出会い、以後その精神を貫いていくことになる。
 だが長続きはせず持って生まれた好奇心から、菓子作りの道に再び歩もうとする。
 そこで氷砂糖の製造を思いつき、二十八歳にして氷砂糖の製造法を完成させた。
 明治二十一年事業化に成功し、待望の東京へ進出したのである。
 話を戻そう。
 十湖は式典出席者に対し句碑建立をすることで、自分が蕉風の引継ぎ者であると声を大にして説明していた。
 しかし、俳句界には芭蕉に対する批判者として正岡子規が登場し、風雅風流の俳諧は説明的で俳句じゃないと批判して一世を風靡していた。
 世は正岡子規による自由律の俳句へと変貌しつつあったが、十湖は社会の風潮などお構いなく蕉風俳諧を貫いていた。
 ところで、十湖が鈴木の私邸に建立した句碑には何と記されていたのだろうか。

       短夜やされどたしかに夢ひとつ

 明治二十三年ころに詠んだ句で、出世した今の藤三郎の境遇を表しているものを選んだといってもいい。
 同時に十湖自身をも例えており、藤三郎とともに報徳運動を貫き、「人生は短いというが、まだまだ実現しなければならない夢がある」ことを吟じていた。

Toujirou
(私邸に建立した十湖の句碑)

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2023年8月 9日 (水)

俳人十湖讃歌 第114回 東北漫遊(3)鈴木藤三郎

 東京駅に降り立つと、背広姿の鈴木藤三郎が改札口で手を振っている。鼻の下のなまず髭が目立った。
「せっかく東京まで来たのだから、どこか行きたいところがあれば案内するが、どうかね」
と藤三郎が誘う。もちろん社交辞令のつもりで言ったのだが。
「天気も良いようだし、ぜひ鎌倉へ行ってみたい」
 十湖は、はしゃぐようなそぶりで、うれしそうに応えた。十湖には遠慮と云う二文字が念頭にはなかった。
「鎌倉なら自分の別荘がある。それなら私も一緒に行こう」
 費用は勿論言い出した藤三郎が負担するつもりだった。
 この日は藤三郎の私邸に泊まり、翌日、彼に案内されるまま鎌倉へいく。
 鎌倉八幡宮につづく沿道は出店が多く賑やかで、十湖の頭には次々と句が浮かんでくる。
 最初は並んで歩いていたにもかかわらず、いつしか十湖は数歩先を歩いていた。
 吟行の際のいつもの癖か、立ち止まっているかと思えば、次の地点へ突然移動する。動きが頗るコミカルだが早い。
 後についていく藤三郎が八幡宮に差し掛かった時、先に歩いて行った十湖の様子がおかしいのに気付いた。
 みすぼらしい着物を着た十一、ニの娘が、産まれてまだわずかしか日立ちせぬ子を負ぶっている。十湖はこの小娘に言葉をかけているようだ。
「お前には親はいないのか。どうしてここでそんなことをしているのだ」
「母ちゃんがいるけど、病気で寝ているんだ。だからこうして奉公に出て金を稼いでいるのさ」
「父ちゃんはどうした。母ちゃんの病気は治るのか」
「父ちゃんは去年死んじゃった。母ちゃんの病気は胸の病だといっていたけど。弟が母ちゃんの側で看病している」
「それはかわいそうに。お前たちはいい子だ。これで、せんべいでも買って食べなさい。母ちゃんに孝行せえよ」
 十湖は目に涙を貯めながら、屈託なく話す小娘に懐中から五円紙幣を出して渡した。
 菓子を買えといって五円を差し出すとは、小娘にとって法外な額だったに違いない。
 藤三郎は涙脆い十湖の姿に、意外な一面を見た思いであった。
 二人がその場を立ち去ると、近くの店先ではその様子をじいーと見ていた店主らの顔があったことを十湖らは知らない。
「またかい。あのふたり人助けでもしたと思ってるけど、なんだい子らの態度は」
「まったくだよ。芝居がかっている」
 店主らは口々に呆れた様子で、どちら側にも同情はなかった。
「よりによって、あんな子供に五円もくれてやるなんて、初対面だというのに大人が手玉にされているとは思わないで、ばかだねえ」
「それに子供の母親らしき女がその金をしっかり巻き上げちゃってね」
「ほんとだねえ。髭の爺さんもお人よしだよ」
 一方、鎌倉見物を終えた十湖と藤三郎は楽しい吟行となったことに気をよくしていた。
「来る時に、子守をしていた小娘に同情して、持っていた金を全部呉れてやってしまった。悪いが帰りの旅費を用立ててくれんか」
 十湖が、歩きながら申し訳なさそうに鈴木にせびるのだった。

Tosaburo02_2
(鈴木藤三郎)

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2023年8月 5日 (土)

俳人十湖讃歌 第113回 東北漫遊(2) 車上の人

 間もなく町家が切れた辺りで、それまで話しかけていた十湖の口が、急にへの字に曲がり寡黙になった。
 松五郎は十湖が自分の応え方に癪でも触ったのかと気になり、怒られては損だと知らぬふりをして車を進めた。
 ほんの短い時間だが右折をした時に見えた豪邸に、なにやら曰くがありそうだと思った。
 豪邸の主は金原明善、天竜川治水事業で財をなし、政界、財界でも一目おく人物である。十湖とはこの地域の龍虎の間柄だといわれている。
 二十年前「龍虎の会談」だと地方新聞におだてられ、二人が会ったときのことを思い出していたのだった。
「松五郎、わしと明善はどっちが龍で虎だと思うか」
「そりゃ誰が見てもはっきりしていますぜ」
「大体どっちが龍で虎なのか。ひげを蓄え、とぐろは巻かずとも酒を飲んだら、くだを巻く。人気もうなぎのぼりで、天に昇る龍のごとしだ。たぶん、わしが龍だろう。そうだろう」
 十湖は当時を振返りながら、一人で悦になっていた。
「へい、そのとおりです。巷ではこんなことも云っていますぜ。ご存知ですか」
「ほう、それはどんなことだ」
 二人とも話しに夢中になり、車のスピードも緩くなった。
 駅近くに来ると、肉眼でも弟子たちが見送りに来ているのがわかった。
 十湖が旅に出るときは、世話をする弟子を二、三人同行者として選ぶのだが今回は一人旅である。
「道中は退屈でしょうから、これを」
 十湖が改札口を入ろうとすると、弟子の一人が手に持った駅弁と酒の入った包みを差し出した。
「悪いのう。それじゃ行ってくる。帰るのは気分しだいだが、留守を頼む」
 十湖は弟子等に礼を言いながら汽車に乗り込んだ。
 汽車は天竜川の橋梁をリズミカルな音を奏でて通過し、掛川、菊川、金谷の茶どころを走り抜けていく。
 このころには朝が早かったせいか、十湖はうとうとと眠りに入ってしまった。
 小一時間も寝ただろうか、橋を渡る列車の音で眼が覚めた。
 既に富士川を通過中である。目の前に屹立する富士を見て大きな伸びをした。
 喉の渇きを覚え弟子の用意してくれた酒を飲みながら、富士の眺めに放心していた。
 今回の旅の目的は、東京に移り住んだ地元財界人の鈴木藤三郎に会いに行く予定である。
 東京の小名木川にある私邸の新築祝いに顔を出し、句碑を建立する手筈になっていた。

Jikokuhyot13

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