芭蕉忌

2023年7月12日 (水)

柏葉の十湖取材 (芭蕉忌参列記)

 新朝報に連日三回執筆してきた鷹野は、その一節に「十湖をして平凡なる眼より見るときはさほど孝者たり、忠者たりと思わず、されど十湖はりっぱなる孝子にしてまた忠義の国民なり、その勤王心厚く我がままにして真心一途の忠義を貫き曲げない人物である」と評したことがあった。
 今回は、この記事を裏付けるよう直接本人に会って現状を把握せよという指示があった。
 鷹野弥三郎はまだ若く怖いもの知らずであるが、主任になってそれなりの仕事を達成してきた。
十湖のところにも何度か足を運んできているのでまさにもってこいの出張だと喜んだ。
 会社からの依頼の趣旨は、社会の風潮が日々文明を取り入れて物質的実利主義へと移り変わっていく中にあって、元禄時代から続く趣味の延長上の平民文学ともいえる俳句の世界に、正岡子規らによる新派集団が生まれたという今日、彼らの蕉風いわゆる月並み派を排斥しようとする動きが起こったにもかかわらず、今日でもひとり純趣味の月並みを持続して少しでも動揺することなく、平然として古人の遺作を脱せざる純月並みの俳人たちがいるので取材して来いというものであった。
 明治四十年十一月、体調がすぐれぬ柏葉だったが、老体に鞭打って閑詠自適を貫き俳句の選評に忙しい十湖を思えば、訪問することが慰めになると足を向けた。
 汽車を天竜川駅で降り、市野町を経て中善地に向かう。まだ陽が傾くまでには時間があった。
 玄関を入り奥に向かって「ごめん下さい。柏葉です」
と大きな声をかけると、その家の主十湖自身が出てきた。
「来たか。まあ上がれ」とそっけない返事。
 家の中には妻も弟子の姿もない。
 どうしたものかと思案していると書斎へ通され着物姿のままの十湖が
「遠方よりよく来てくれた。ごくろうだったな」
 柏葉はすかさず恐縮しながら
「お忙しいところわざわざ時間をとっていただき、すみませんでした」
と切り出し、早速、訪問の要件を説明した。
 しばらく黙って筆を動かしていた十湖だが、おもむろに灯火を点じ始めた。
「新派俳句の最も嫌う蕉風純月並みによって句を作るといえども、古色極まる一派の月並み連のように、いたずらに古人の残り粕を褒めつつあるものとは、わしはその趣きを異にする。古俳聖の趣味をたとえ、いわゆるその調べは一種のクラシックなれども、これに新しき時代思想を合せ、決して思想陳腐にして蕉風を脱せごとくのものにあらず。
富贍なる新思想と奇異なる人生観によって、みだりに利口ぶらざる句をものし、余韻できできたる如くにして一句は一区ごとに独特の俳味あるものを尊び、俗を化して俳となし味をして俳味に化せしむるの天才詩人、むしろ天才なる。かかる偉大な俳人、あえて自ら曰く、蕉派の隊長月並みの棟梁なりと」
 十湖は一息にして柏葉の要件に応えてきたのである。
 その夜は十湖宅に宿泊し夕餉を弟子たちと懇談しながら過ごす。
 午前二時ころ降り出した雨の音で目を覚ますが、そのまま寝入る。
 早朝、十湖より百人塚、一基一句塚を見物していけと弟子を呼び十湖の庵を出た。
 東南に向かい数町歩み天竜川の堤を超えると御嶽神社に着く。
 その西隣に摩利支天の小さな祠があり、そばに百人塚があった。
 これらは十湖および門人の手によって建てられたものにして凡そ百五十基あり。みな思い思いの俳句が記されていた。
 さらに弟子の案内で次に向かったのは天竜川を眺めつつ七,八町上がり左に折れて豊西小学校の前を過ぎ十湖の檀家寺である源長院に至る。
 寺は屋根の吹き替え中で取り乱されていたが、十湖の次男近藤登之助の句碑をはじめ門人らの句塚を見学する。     ここを去り北西に向かい笠井の町に至ると福来寺の観音堂を拝し、そのそばに建つ百数十の一基一句塚を見た。
 これ等は十湖のちからによってできたもので、以上三個所の句碑は都合三百基であった。十湖の意気込みを知った思いであった。
 庵へ戻りそろそろお暇を乞うつもりでいたところ、十湖から明日は芭蕉忌を催すので見て行けと促される。
 以下その見聞録を記す。
 明治四十年十一月十七日大有庵の芭蕉忌
 潚々(しゅうしゅう)と降り連なる時雨は実に翁忌を偲ばれて去る十七日一層の風流さ、みやびやかさを増し いともよき日和なりき。
 十湖主催の会は各地、各国の俳人から送り来られる朗詠佳吟が去る七,八日より引きも切らず集まり積みて山を成し、献詠千余句に及ぶ。
 当日午前九時ころより雨の中を三々五々集まり来て十時半ころには五十余名と多数なり。祭文を送りし俳人は細江の野末寸穂ほか十数名 同庵当忌のため数日前より俳人らが入りふけり、立ちふけり下俳諧を成しつつあり。当日の来賓中には抹茶の佳雅堂、書家司馬老泉、山下青城の二氏、伶人には竹石、随処、如鶴の三名なり。各俳士は十時ころより数日来のごとく下俳諧に努め、庵主は喜悦満面に溢れていたり。
 降り連なる雨は正午に近づくころより止み朦々たる雲はいずれにか去りて碧空高く、清く、陽は輝きて小春日和となれり。それより来会俳一同庵主が自慢の蕎麦の饗応に大いに腹を肥やして午後一時より翁の追善となり。
正式俳諧連歌に移り各々翁を拝して着席せり。
執筆随処、宗匠十湖、脇宗匠起雲、朝山、通義、訂鷗の四名、座見成佳、鶴眠の二名、香司春雄、にして皆よく吟詠し、なかなか盛況にして佳句多く、六時ころに至れり晩餐となる。また庵主が粋を凝らして数日前より用意せられたる献立の酒肴の饗を受け、各々生酔心地となり。悠々俳胸湧き、そう一層の賑やかとなれり、時しも善いかな、雨後の月は遠き滄溟(そうみょう)より煌々として輝き出で、十二日の今や満たんとする月は庵りを照らし、俳筵の羽客が面影は高々しうなり、香は細く煙を引きて薫り芬々(ふんぷん)として鼻端を衝くがごとく奥ゆかしき、而して俳諧連歌の終わるや、伶人は黄なる綾羅の格衣を装い、笙、篳篥、竜笛を手にせる三人相並び越天楽の譜を合奏し、歎楽極まりなく、奏終わりて各国俳人の千余章を朗吟し夜は沈々と更けて九時に至るのころ式は全く終わり、一同に十湖編深見草第四編一部、奉書紙石版摺りの菊日和九歌仙、各一部及び書画敷栞を分頒ちたり。
ここに於いて成れるの俳諧は数日来のものを合わせて百韻二巻、俳諧連歌七巻なり、それより又月を眺めつ吟詠せんと勅題「社頭の松」「水仙」及び「なし即興のを雪月は斜になり詩も結ぶ五更の頃ばい、暁告げる鶏の鳴音と相まち、歓呼聲裡に散会せり。
なお、当日庵主十湖は門人二十余名立ち合いの上、大木随処氏へ長く用い来りし七十二峰庵の庵号を譲興せり。しかして十湖は爾後大有庵と号するなりと。
Fukamikusa

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2019年12月 6日 (金)

芭蕉忌(6) 第361回

 正式俳諧連歌に移り各々翁を拝して着席せり。
 執筆随処、宗匠十湖、脇宗匠起雲、朝山、通義、訂鷗の四名、座見成佳、鶴眠の二名、香司春雄、にして皆よく吟詠し、なかなか盛況にして佳句多く、六時ころに至れり晩餐となる。また庵主が粋を凝らして数日前より用意せられたる献立の酒肴の饗を受け、各々生酔心地となり。悠々俳胸湧き、そう一層の賑やかとなれり、時しも善いかな、雨後の月は遠き滄溟(そうみょう)より煌々として輝き出で、十二日の今や満たんとする月は庵りを照らし、俳筵の羽客が面影は高々しうなり、香は細く煙を引きて薫り芬々(ふんぷん)として鼻端を衝くがごとく奥ゆかしき、而して俳諧連歌の終わるや、伶人は黄なる綾羅の格衣を装い、笙、篳篥、竜笛を手にせる三人相並び越天楽の譜を合奏し、歎楽極まりなく、奏終わりて各国俳人の千余章を朗吟し夜は沈々と更けて九時に至るのころ式は全く終わり、一同に十湖編深見草第四編一部、奉書紙石版摺りの菊日和九歌仙、各一部及び書画敷栞を分頒ちたり。
 ここに於いて成れるの俳諧は数日来のものを合わせて百韻二巻、俳諧連歌七巻なり、それより又月を眺めつ吟詠せんと勅題「社頭の松」「水仙」及び「なし即興のを雪月は斜になり詩も結ぶ五更の頃ばい、暁告げる鶏の鳴音と相まち、歓呼聲裡に散会せり。
 なお、当日庵主十湖は門人二十余名立ち合いの上、大木随処氏へ長く用い来りし七十二峰庵の庵号を譲興せり。しかして十湖は爾後大有庵と号するなりと。

  以上が柏葉の「芭蕉忌見聞録」である。
 市立のサナトリウムにつぎを見舞いに来た柏葉が話した見聞録は、未だ十湖が宗匠として健在であることを物語っていた。
 つぎは十湖の偉大さを思い返し、養女であってよかったと弥三郎とともに追想していた。(完)
 

Basyokin

 

 

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2019年12月 1日 (日)

芭蕉忌(5) 第360回

    庵へ戻りそろそろ暇を乞うつもりでいたところ、十湖から明日は芭蕉忌を催すので見て行けと促される。
 以下に鷹野弥三郎(俳号柏葉)の見聞録を記す。

 明治四十年十一月十七日大有庵の芭蕉忌
 潚々(しゅうしゅう)と降り連なる時雨は実に翁忌を偲ばれて去る十七日一層の風流さ、みやびやかさを増し いともよき日和なりき。
 十湖主催の会は各地、各国の俳人から送り来られる朗詠佳吟が去る七,八日より引きも切らず集まり積みて山を成し、献詠千余句に及ぶ。
 当日午前九時ころより雨の中を三々五々集まり来て十時半ころには五十余名と多数なり。祭文を送りし俳人は細江の野末寸穂ほか十数名。同庵当忌のため数日前より俳人らが入りふけり、立ちふけり下俳諧を成しつつあり。
 当日の来賓中には抹茶の佳雅堂、書家司馬老泉、山下青城の二氏、伶人には竹石、随処、如鶴の三名なり。各俳士は十時ころより数日来のごとく下俳諧に努め、庵主は喜悦満面に溢れていたり。
 降り連なる雨は正午に近づくころより止み朦々たる雲はいずれにか去りて碧空高く、清く、陽は輝きて小春日和となれり。それより来会俳一同庵主が自慢の蕎麦の饗応に大いに腹を肥やして午後一時より翁の追善となり。

Renku

 

 

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2019年11月18日 (月)

芭蕉忌(4) 第359回

しばらく黙って筆を動かしていた十湖だが、おもむろに灯火を点じ始め、腕組みをしながら話し始めた。
「新派俳句の最も嫌う蕉風純月並みによって句を作るといえども、古色極まる一派の月並み連のように、いたずらに古人の残り粕を褒めつつあるものとは、わしはその趣きを異にする。古俳聖の趣味をたとえ、いわゆるその調べは一種のクラシックなれども、これに新しき時代思想を合せ、決して思想陳腐にして蕉風を脱せるごとくのものにあらず。富贍なる新思想と奇異なる人生観によって、みだりに利口ぶらざる句をものとし、余韻できたる如くにして一句は一句ごとに独特の俳味あるものを尊び、俗を化して俳となし味をして俳味に化せしむるの天才詩人、むしろ天才なる。かかる偉大な俳人、あえて自ら曰く、蕉派の隊長月並みの頭領なりと」
 十湖は一息にして柏葉の要件に応えてきたのである。
 その夜、柏葉は十湖宅に宿泊し夕餉を弟子たちと懇談しながら過ごす。
 午前二時ころ降り出した雨の音で目を覚ますが、そのまま寝入る。
 早朝、十湖より百人塚、一基一句塚を見物していけと弟子を伴い十湖の庵を出た。
 東南に向かい数町歩み天竜川の堤を超えると御嶽神社に着く。
 その西隣に摩利支天の小さな堂があり、そばに百人塚があった。
 これらは十湖および門人の手によって建てられたものにして凡そ百五十基あり。みな自信作の俳句が記されていた。
 さらに弟子の案内で次に向かったのは天竜川を眺めつつ七,八町上がり左に折れて豊西小学校の前を過ぎ十湖の檀家寺である源長院に至る。 
 寺は屋根の吹き替え中で取り乱されていたが、十湖の次男近藤登之助の句碑をはじめ門人らの句塚を見学する。
 ここを去り北西に向かい笠井の町に至ると福来寺の観音堂を拝し、そのそばに建つ百数十の一基一句塚を見た。
 これ等は十湖のちからによってできたもので、以上三個所の句碑は都合三百基であった。
 柏葉はあらためて俳句を育てる十湖の意気込みを知ったようであった。

Jyukohyakutuaka

 

 

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2019年11月 6日 (水)

芭蕉忌(3) 第358回

 明治四十年十一月、体調がすぐれぬ鷹野弥三郎(俳号柏葉)だったが、老体に鞭打って閑詠自適を貫き俳句の選評に忙しい十湖を思えば、訪問することが自分の慰めになると足を向けた。
 汽車を天竜川駅で降り市野町を経て中善地に向かう。まだ陽が傾くまでには時間があった。
 十湖宅の玄関を入り奥に向かって「ごめん下さい。柏葉です」
と大きな声をかけると、その家の主十湖自身が出てきた。
「来たか。まあ上がれ」とそっけない返事。
 家の中には妻も弟子の姿もない。どうしたものかと思案していると書斎へ通され着物姿のままの十湖が
「遠方よりよく来てくれた。ごくろうだったな」
 柏葉はすかさず恐縮しながら
「お忙しいところわざわざ時間をとっていただき、すみませんでした」
と切り出し、早速、訪問の要件を説明した。
 Kasaiima

 

 

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2019年10月20日 (日)

芭蕉忌(2) 第357回

 新朝報なる新聞に連日三回執筆してきた鷹野は、その一節に「十湖をして平凡なる眼より見るときはさほど孝者たり、忠者たりと思わず、されど十湖はりっぱなる孝子にしてまた忠義の国民なり、その勤王心厚く我がままにして真心一途の忠義を貫き曲げない人物である」と評した。
 このとき、出版社からの依頼は「社会の風潮は日々文明を取り入れて物質的実利主義へと移り変わっていく中にあって元禄時代から続く趣味の延長上の平民文学ともいえる俳句の世界に正岡子規らによる新派集団が生まれたという今日、彼らの蕉風いわゆる月並み派を排斥しようとする動きが起こったにもかかわらず、今日でもひとり純趣味の月並みを持続して少しでも動揺することなく、平然として古人の遺作を脱せざる純月並みの俳人たちがいるので取材せよ」とのことだった。その対象者の中の一人に十湖がいた。

Meijihaikai

 

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2019年10月18日 (金)

 芭蕉忌(1) 第356回

 昭和十一年東京の市立サナトリウムの病室では、鷹野弥三郎が妻つぎを見舞いし、お互いの過去の出来事を紡いでいた。
「僕は君に出会う前は義父のところによく足を運んでいたが、そのたびに君との出会いが何度となくあったね」
 弥三郎は、つぎの顔色を見ながら話しだした。
 つぎは未だに鷹野との出会いが結婚に結び付くとは思っていなかったらしい。
 結婚に至るその年、弥三郎は最後の取材で十湖宅を訪問することになっていた。
「最初から俳諧の手法を訊ねようと意図しながらの訪問だったが、義父には見抜かれてしまい、挙句に四、五日も庵に滞在してしまったよ。おかげで句会にまで顔をだすことができたのさ」
「私は俳句のことは知らなかったし興味がなかったわ。でもあなたにとっては貴重な体験だったのね」
 再び弥三郎は当時の模様を反芻していた。

Byositu

 

 

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