若き日の富田久三郎(25) 第471回
明治十二年(一八七六)五月、工場の空き地に鯉のぼりが泳いでいる。三人で見つめながら春の陽気を楽しんでいた。
「きぬ、やっぱり工場をもっと軌道に乗せるためには、大量の苦汁が必要だ」
工場の運営は、同じ働き手である妻に必ず相談する。
少しまめなところもあるが、人の意見はひょんなことから発見があるかもしれないという研究者の立場からでもある。
「あなたには今の工場の生産状況が不満なのでしょう。お客さんはいるのに、その希望に添えないというもどかしさかしら」
「そんな悠長なことではない。製品への需要はあっても対応する材料が足りなくて用意できないのだ。いろいろ考えたが、又調査の旅に出ようと思う」
「今度はどこへ行くのですか。それにどのくらいの期間」
「十州塩田を周ってみようと考えている。さて、どのくらいになるだろうか。目的地へ着いた具合で手紙を出すよ」
「十州塩田って、まさか瀬戸内海ではないでしょうね」
きぬは苦虫をつぶしたような顔できつく云った。