富田久三郎

2021年4月11日 (日)

明治の化学者 富田久三郎の若き日々「くろもじの花」

 既に当ブログで紹介してきた富田久三郎の若き日々は遠州における活躍の一端です。
 すでに結末を迎えてしまいましたが、今回PDFでお読みいただけるよう下記のとおり用意しました。
 ぜひ、若き日の久三郎の活躍ぶりをお楽しみください。
 なお、PDFの書き下ろし作品には「くろもじの花」とタイトルがつけてあります。
 久三郎にとっては生涯切っても切れなかった花であり、化学者として大成していくまでの陰の立役者でもありました。

PDFへは下記「月並み写真堂」ホームページからリンクしています。

Kuromojihyoshi


 「月並み写真堂」http://tukinami.c.ooco.jp

Tukinamti


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2021年2月14日 (日)

若き日の富田久三郎(36) 第482回(最終回)

「というわけでこの地で工場を開設したのだよ。でもそれからも苦難の連続だった。それを乗り越えて今があるのだよ」
 富田久三郎の若き日の昔話は語り終わった。
 鳴門の富田家の居間には既に西日が射しこんできていた。
 随處と江山は深々と頭を下げ、重ねて十湖銅像建設への寄付のお礼を言って富田家を後にした。
 こののち久三郎は十湖銅像除幕式に出席するため、ふるさと市野に戻り、会場である鴨江寺境内に顔を見せた。
 式典出席者は出世した久三郎の姿を見るにつけ、温かく迎えた。
 祝賀会は早々に退散し会場を後にしたが、これが浜松の地を踏む最後となった。

 昭和二年(一九二七年)五月八日夜半、鳴門撫養港で七十三歳になる富田久三郎を乗せた鶴羽丸は、鏡のごとき海上を滑るがごとく多数の歓呼のうちに出港した。神戸で長井長義博士ら一行と合流し、西欧視察の旅に出発した。   (完)

Tomidakoujyo

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2021年2月12日 (金)

若き日の富田久三郎(35) 第481回

 翌年初春、久三郎の移転の意思は変わらない。この三月には家族揃って阿波の鳴門へ旅立つ予定である。
 久三郎はきぬに家族で気賀に行こうと持ち掛けた。
 家族三人は気賀での思い出の地を訪れ、郷里に最後の別れとしたかったのである。
 かつてバラックの工場で研究に没頭した海岸を巡り、次いで気賀の雑木林を抜け低山の中腹に立った。帰路は三人で一気に下ろうと話が弾み、足を滑らせぬよう手を繋ぎあい下り始めた。すると、きぬが立ち止まり一本の木の枝を指している。
「お前さん、きれいな花ね。いい香りがする。まるで簪みたい」
 それは球状になった淡黄色の花の塊である。久三郎は妻に相槌を打ちながら
「これはくろもじの花だよ。じい様が営んでいた市野の錺屋では、この花のような金銀のかんざしを作っては売っていた。父もわしも作るのを手伝った。それにこの花は今のお前だよ。木は薬の研究に関わる資金つくり、どちらも気賀での生活を支えてきた立役者さ」
 思いを込めて話した。そばで十六歳になった長男鷹吉がくろもじの幹に触れながら、反り返りながら自慢そうに云う。
「倭訓栞には樹色黒く、実も黒し、よってこの名がある。延喜式の卯杖に使われた黒木であろう。つまり富田薬舗が今あるのは、何かの呪術によって導かれたということですか」
「呪具に使われたというのはどうなのかな。くろもじの木こそが、わしらの人生に苦難と光明を与えてくれたのだ」
 三人が木の下で佇んでいると、一羽の鳶が大きな輪を描いて青空高く舞い上がっていく。
 その遥か先には浜名湖が一望でき春の陽を浴びて煌めいていた。

 

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2021年2月10日 (水)

若き日の富田久三郎(34) 第480回

 久三郎はこの時、下山博士に国内の製塩業の実態を語り、自己の抱負を詳しく述べた。
「苦汁確保のため十州塩田地方へ工場を新設する計画であり、近日再度適地確認のため調査を実施します」
 これに対し下山博士からは
「邦家のためにもまことに喜ばしいことである。健康に留意して大いにその努力を望みます」
 との心からの激励の言葉をいただいた。
 この様子を戸口の陰で聞いていたきぬの眼からは、思わず熱い涙が頬を伝って流れ落ちていた。
 こうして、同博士の励を受けた久三郎の決心は、ますます強固に不退転のものとなったのだった。

 

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2021年2月 8日 (月)

若き日の富田久三郎(33) 第479回

 この日工場から出てきた久三郎の様子がおかしい。両手が震え笑っているようだが、眼は宙を泳いでいる。
「何か良いことがあって」
 きぬは久三郎に訊ねてみたが夫の説明は意味不明で、その夜家族一同はご機嫌の夫に振り回されていただけであった。
 きぬはこの日の夫に何が起こっていたのか後で知ることになる。

 年が明け明治二十三年(一八九〇)二月、久三郎は静岡県で初めて実施された内務省薬舗開業試験に合格し二月には薬剤師免許の交付を受け市野村で薬局を開業した。薬舗兼製薬工場の運営は順調で炭酸マグネシウムの需要の増加に伴い、事業を拡張し雇う職工も増えていった。
 さらに昨年の研究結果は、失敗どころかわが国で初めて苦汁中の塩化カリウムの分離製造に成功したと業会で絶賛され、学界においても高く評価された。
 同年八月、東京医科大学教授下山順一郎薬学博士が東京大学の学生を引率してこの市野村の工場視察に来る。
「製品は純良です」
 下山博士は賞賛し、工場の全製品を東京帝国大学の薬学教室に模範標本として備え付けられることになった。

 

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2021年2月 6日 (土)

若き日の富田久三郎(32) 第478回

 久三郎は十州塩田踏査の結果、紹介された徳島県撫養町北浜の多田半兵衛から苦汁を原料とするツボガリ五十俵を購入し、従来の方法で潟利  塩(硫酸マグネシウム)の製造を試みていた。だが、いっこうに結晶をみなかった。
 このツボガリは徳島県撫養港から帆船で海路を輸送して豊橋港で陸揚げし、それより陸路をとって市野村まで輸送された。まさに大かかりといってもよい仕入れである。
 ところが研究を重ねた挙句の結晶方法は、少量の結晶体を得ることはできたが結晶粒は潟利塩とは全く異なるものであった。
 久三郎は両手を挙げて腹の底から叫び声を発した。
「失敗だあ。大損をしてしまった」
 頭を抱えたままた、その場に座り込んでしまった。しばらくして平静に戻ると気を取り直し
「まてよ、この結晶が潟利塩でないとすると、いったいこの結晶体の正体は何なんだ」
 さらに、結晶体の性質を究明してみると塩化カリウムであることが判明し、さらに、この原料ツボガリは人口カーナライトであることがわかった。
 久三郎の研究結果は、苦汁からカリ塩類を製造することが可能だと断定したが、製造コストや販路などの諸条件を考えると、直ちに販売するのは差し控えた。

 

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2021年2月 4日 (木)

若き日の富田久三郎(31) 第477回

 久三郎の踏査は、残る香川県の湯元塩田と徳島県の撫養塩田である。海岸線での製塩業者の現状からは到底期待が持てなかった。
 やはり、湯元浜では「ツボガリ」と称し、撫養浜では「アラセイ」と云って前回同様の粗製潟利塩を製造販売していたに過ぎなかった。
 もはや万事休す。久三郎は踏査の途中で肩を落としてしまった。
 だが、それでも撫養塩田の伊藤倉次ら三氏からは久三郎の熱意に励ましとそれぞれ協力を約束してくれた。
 旅の最後の日は讃岐に逗留すると決めていた。早朝、宿を出て金毘羅宮にお礼参りして二か月ぶりに市野村に戻った。     
 
 村へ帰ってからの久三郎は暑い最中でも書き物をして、しきりに将来計画を練っていた。
「あなた、どうしたのですか。まるで人が変わったみたい」
 妻はいつもなら「お前さん」と呼ぶのに、この日は「あなた」になっている。
「どこも変わっていないよ。お前のほうが変だ。わしが留守の間に何かあったのかい」
 久三郎はきぬに聞き返すと、薄ら笑いを浮かべながら
「別に何もありません。でも留守の間にいろんな方が訪ねてきたので、つい言葉使いが変わってしまったかしら」
 いつもなら久三郎は工場に行って製薬の研究と機具の稼働をしているはずである。
 踏査が終えてからの夫は妻には少し異常に見えたのかもしれない。普段持たない筆を取り出して手紙を書き、図や計画書のようなものも作っている。それに作業中はむやみと喋らなくなっていた。

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2021年2月 2日 (火)

若き日の富田久三郎(30) 第476回

 久三郎は、雨が続く日には店先の番台に頬杖を突いたまま外を眺めている。
 再び家業が軌道に乗ったというのに、きぬは浮かぬ顔をしている夫の肩に手をそっと置き囁くように云った。
「お前さんは悔しくはないですか。苦汁が集まらないのは誰の所為でもないでしょう」
「そのとおりだ。しかし相手がある」
「時間がたてば相手だって変わります」
「瀬戸内へ塩田調査に行って以来八年以上になるが、塩業だってやり方が変わっているかもしれないな」
「そうでしょ。だから瀬戸内をもう一度調査するということなら」 
「お前は物分かりが早いなあ。要するにそういうことだ」
「梅雨に鬱陶しい顔を見ているのはもうたくさんですよ」
 きぬはお道化調子で嘲笑しながら応えた。
 それに気を良くしたのか久三郎は
「それじゃあ早速明日にでも出かけるか」
 すっくと立ちあがるや否や、支度しに工場へ走った。
 再び十州塩田地帯を踏査する。明治二十一年のことである。讃岐、阿波には協力者もいるし今回の旅はきっと有意義なはずだと期待した。
 現地へ着いてみると思っていた不安が的中していた。
 前に久三郎が踏査に来たときは、苦汁を採取していたのは湯元塩田と徳島県の撫養塩田の一部だけだったが、苦汁の利用は旧態以前で何の進展もなかった。
 前回同様に踏査にあたり、苦汁の採取と廃物利用の抱負を説いてみたが、どこも賛同してもらえなかったのである。

 

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2021年1月31日 (日)

若き日の富田久三郎(29) 第475回

 苦汁を大量に算出するためには塩が必要だ。
 その産地を求めて久三郎には宇布見から取り寄せた過去があった。他人任かせでは到底思うほどの量が集まらなかった。
 いまは、自分の力で塩業を興すことが最善の策だと肝に命じている。
 舞阪は宇布見の真南で浜名湖の最南端にある。自ら塩を作る方法を考案し、ここで実現させよう試みた。しかし、塩価の暴落に遭い本業にも影響が及ぶと考え、やむなく断念せざるを得なくなった。
 明治十九年(一八八六)六月二十五日、「日本薬局方」が制定公布され、翌二十年七月施行した。
 当時、薬局、薬舗において販売を許可された薬品は「日本薬局方」に定められたもののみに限られ、薬品の価格が騰貴し、製薬業者の利益は膨大なものであった。
 ちなみに久三郎が製造した炭酸マグネシウム及び硫酸マグネシウムは、後年いずれも日本薬局方に見事合格し
「薬局方に適合したもののうち、国産品は富田の製品のみである」
という賛辞を受けた。
 ところが翌年二月十七日失火により市野の自宅と隣接の工場を全焼した。すべてが灰になったが、家族に怪我がなかったことは幸いであった。
 だが、この惨禍で事業は振り出しに戻ってしまった。
 いまさら後戻りすることはできない、家族を挙げて復興に全力を尽くした。
 その結果、家業が再び元通りになった時、自らの研究を今一歩前へ進めようと考えた。それには苦汁を確実に確保することで、念願の炭酸マグネシウムを量産することであった。
 (舞阪塩田基本構想)
Shio

 

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2021年1月29日 (金)

若き日の富田久三郎(28) 第474回

 市野の実家は、相変わらず錺職と鍛冶職の生業で毎日多くの客が出入りして繁盛している。
 父勘七の性格もあって地域の人付き合いも良く好感をもたれ商売がうまくいっている。
 おかげで久三郎は気賀での苦労を少しずつ忘れかけ、新しい研究に取り組み始めていた。
 きぬは店の裏方で鷹吉の面倒を見ながら甲斐甲斐しく店を手伝っていた。
 二年後の十月某日、役場から通知が届く。指定された出頭の日に出向いて戻った久三郎は、夕餉に皆が集まったところで風呂敷を解き、筒の中から一枚の書状を父に手渡した。
 受け取るなり勘七は驚きと嬉しさを隠せなかった。
「これは製薬免許證だぞ。これがあれば薬屋ができる。一体お前はいつの間に」
 と目尻を下げた表情で云う父の言葉に家中が喜びの渦に巻き込まれた。
「じい様が生きていれば、どんなに喜んだかも知れないのにな」
 勘七は膳を囲んだ皆に免許證を披露した。
 久三郎の失墜の日々もこれで報われ、未来に希望が見えた出来事となった。
 今、店を切り回しているのは父勘七であるが、祖父保五郎が亡くなった時には、すでに富田家の家督は久三郎が相続をしていた。
 製薬免許を得たこの日、改めて家長としての自覚を感じていた。久三郎が三十歳の秋であった。

Menkyo

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