高野山紀行(9) 第446回
極楽橋は、明治時代には不動橋・板橋とも呼ばれて、橋のたもとには銅像(現在は石造)の地蔵尊が祀られている。
橋の向こう側には「極楽茶屋」と呼ばれる茶亭があり、旅姿の男女が休んでいた。
十湖一行は宿泊場所を極楽橋付近にとると、極楽橋を渡り不動坂を歩いて高野山まで向かった。およそ二キロ半ほどの道のりであった。
その夜、月を見ながら十湖はいくつもの句を詠んでいる。
橋越すや空に真如の夏の月
山の上の都に聞くや時鳥
時鳥我も拾わず落とし文
数日ここで滞在し、伊勢へと向かうことになる。
初期の目的であった高野山への参詣を終え、六月十五日予定どおり帰庵するも、黄鶴は以後十湖の前に顔を出すことはなかった。
一行の中では門人として中堅の立場なのだが、自ら画人としての道を進むべく去っていった。
大正十五年には経営していた瀬戸物店を廃業し、以後の生き方はさらに波乱万丈に富み、短歌を詠み画家の鈴木三朝との交友が始まり、地域の画家としての地位もしだいに固まっていく。
一方、十湖の側は同行した鈴木卓曙、松陰が中心になり、大蕪庵を守り立てていくことになる。
十湖の旅も今回の高野山紀行が最後になるとは誰も思ってはいなかった。
(完)
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