正岡子規と十湖

2013年11月 8日 (金)

子規と十湖ー 欽采へ

 各地に十湖の門人弟子がいると豪語している中に長野県内も含まれる。
芭蕉の聖地と思われている姨捨の地に瀬在多の助こと和楽園欽采がいた。
十湖ら一行が姨捨を旅するきっかけになったのが欽采からの手紙である。
明治39年何度か欽采から招待の手紙が届く。
十湖はその返事を送りそこなっていた。
その理由は欽采からの手紙には俳人としての自らの悩みが書き添えられていた。
十湖はそれに対する返事を出すべきかどうか悩んでいた。
この招待の手紙が届いたのも次男の友月の戦死がきっかけであったから、息子同様の歳の欽采には何とか解決できるような内容で返事をしたかったのである。
やっと返事が書けたのは半年後のことで次の内容であった。
「本をよむいとまもなく、師について学ふいとまもなければ、俳諧をするに及ばず、只只家業を出精する俳諧とおもふへし
他に二十世紀の俳諧なし、
○ 金も徳も才もなきものか学ても上達する筈はなし、何か三つうちひとつくらいはなけは駄目だ、やめるべし、只只家業をつとむるのが兄の天命也、他のことをなすなから時を待って修行すべし、家政をやふるは俳諧にあらすかし
乙巳五月十二十三日   十湖
    欽采兄

 

 色も香も嬉しきものは新芽哉
 川中によき村ありて夏木立                            乞批」

 

この手紙の内容を見た十湖の研究者の中には二十世紀の俳諧像を示しているとも云っていた。
欽采宛ての十湖の手紙は日常生活の充実感の中に俳諧の境地を求めているのだ。
単なる花鳥諷詠に終わらないところが十湖の目標とするところではないのかと。
子規等からは「風教的作物」として見られていた俳諧だが、十湖の俳諧に対する根拠は終世変わらなかった。
平成六年浜北市史編纂に当たっていた当時静岡県立大学短期大学部の岩崎鐵志教授は「それは俳諧の歴史性からして民衆として作りやすく理解しやすい特徴を生かす方策が考えられていたのではなかろうか。」(浜北市史通史下巻より引用)

 

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2013年11月 1日 (金)

子規と十湖---ホトトギス

子規は36歳という若さでこの世を去った。今日に至る俳句界の発展は彼の実績に負うところが多く功績を残している。
1897年(明治30年)31歳のときには俳句雑誌『ホトトギス』を創刊し芭蕉の詩情を高く評価し、与謝蕪村のように忘れられていた俳人を発掘し世間にも紹介した。
その一方、旧来の俳諧を「月並」と称して文学性の貧しさを批判した。十湖らにとっては連歌会や歌仙を批判されたも同然であった。
子規の後継者である高浜虚子は、子規の「写生」(写実)の主張も受け継ぎ「客観写生」から「花鳥諷詠」へと方向転換していったのである。
これは子規による近代化と江戸俳諧への回帰を折衷させた主張であるともいわれている。
 子規が旧来の俳諧を批判するより3年前正岡子規に書簡を送り門下に入った男がいた。細江町出身の加藤雪腸当時20歳である。
子規の没後浜松地方で近代俳句運動を始め、大正2年に曠野社を創立した。
彼が弁天島に子規の句碑を建立したのは前回のべたとおりである。
浜松地域の俳句会の発展は十湖等旧来の俳諧と平行して、こうした動きが高まっていったのである。
大正4年になると子規の後継の高浜虚子の同人「ホトトギス」に、浜松市の現東区原島町出身の原田濱人がいた。十湖ら旧来の俳句が衰退後は彼らの活躍が地域の俳句界をリードしていくことになる。
昭和14年「みづうみ」を創刊し現在に至っている。
 さて、十湖はこうした未来図を生前描いていただろうか。
 大正13年の講演の際に、もし子規が生きていたなら自らの俳諧に戻ってきただろうの如き発言をしている。このときは十湖自身が健在であったし門人も決して少なくなかったから身内びいきの眉唾物の発言といってもいい。
しかし、十湖の本心は新しい時代の俳句とはどうあるべきか、きっと考えていたはずである。
それを窺い知る事のできる資料があった。
  (次週へ続く)

 

 

 

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2013年10月25日 (金)

子規と十湖 その3

 大正時代の後半に至っても十湖の俳諧宗匠の役割は果てることはなかった。むしろ一段と熱を帯びたかに見えた。
十湖が76歳になった頃には周りからそろそろ「敬意を表して銅像でも建てたらどうか」との囁きまでも聞かれるようになった。
たとえ人物的には奇人変人に見えても実績は高く評価されていたのである。
 その評価する先鋒が県外からの支援者かつて十湖の郡長時代以前から付き合いのあった富田久三郎であった。
 銅像建設のことは又の機会にして、子規との俳句の違いを話したい。
これは大正十三年の十湖の講演から抜粋したものである。十湖の側から見た子規論である。
「新派と正風俳諧とはその見るところが違っているが、俳諧の連歌すなわち付き合いにおいても又正風俳諧とは別の考えを持っていて、付き合いの憲法とするところの指合去嫌の法則などは不必要なものだというているのであります。・・・・・
子規の付き合いを私は見たことがあるが、季題も方式も一向頓着なしの心の赴くままの句を並べているのであります。
しかし、私の考えでは、子規は未だ俳諧の真義を解していないから、かような付き合いをも良いとしたのであろうと思われます。・・・・・」
 これは身内の集まりの話だから一方的な十湖側の言い分であり、一概に子規が俳諧について理解していないとは云いがたい。
更に講演は続く。
「方式に縛られ、方式を繰りつつある間に、種々の方面に頭を配るから知らず知らずの間に思想の円熟を来たし、そうして万事に達通せる真の俳味ある俳人が出来上がるのである。方式を無視した付き合いは真の俳諧でも芸術でもないといって差し支えないのであります。私は常に思っています。
子規は達識の人には相違なかったが、未だ年齢も若かったので、充分の研鑽を全うしなかったのである。
思想の円熟を遂げなかったのである。
もし今日まで生きていって研究せられたならば、必ずや正風俳諧へ帰するに至ったであろうと思うのであります。」
(完)

 

 

 

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2013年10月18日 (金)

子規と十湖 (その2)

俳句界にとって正岡子規の登場は、娯楽としての俳諧から文学へと押し上げる結果となりまさに明治維新同様の改革となった。
だが俳諧師の一部にはさしたる影響なしと、自らの流派を率いては吟詠を楽しんでいた。その中に十湖宗匠もあることは前回記した。
さして問題にしないとはいえ全国に1万人もの門人門弟がいるとなると、子規の存在を無視するわけにはいかない。
大正十二年のことだが、これを示すに相応しい記事があったので紹介したい。
大正12.6.29新聞記事より
松島十湖翁歓迎俳句大会
翁は全国行脚中本月来名するため記念する俳句会を開くとの記事
日時 6月28日午後正5時出雲大社名古屋分院
会費 金五十銭
出席者には揮毫の半切全員に進呈
主催 金城風雅会在名門人有志
後援 新愛知文芸部

 

 金城風雅会主催本社後援の奇人俳人十湖翁来名を歓迎する俳句会は
28日市内中区老松町出雲大社分院においておびただしき来会者のため
予定よりやや遅れて午後7時より開催された。
 これより先、既に十湖翁を慕いて会場へ午後4時頃より詰め寄せ、
午後5時には会場たる大広間には四尺も余さず対座しなほ俳人踵を連ねて会し来たり。
午後7時には250余名に及んだ。
開会に先立ち同院本殿前に記念撮影を終わり一同の着座を待って
小原本社記者の開会の辞が宣せられ続いて金城風雅会の主宰者側と
の挨拶あり、次いで本社小原編集長後援者側として立ち
「この如き空然の盛会致したるは松島十湖翁の徳のいたすところで後援者側として
十湖翁及び来会の俳客諸君に深甚なる感謝の意を表したい」と挨拶した。
続いて小原記者の紹介で松島十湖翁が立ち
「徳川時代から名古屋は俳都であると称せられている。
それは也有士朗、暁台の三大俳人を初めその他多くの多くの俳人を生んだからである。
 今私はこの俳都に於いて私のためにかくも盛んな歓迎の会を催していただくというのは誠に私の光栄とするところであります。
 でその御礼のしるしに一言申し上げておきたいと思います。
近時俳句は新しい派ができているが、それは感心いたしません。
やはり俳句は芭蕉翁を宗とすべきであります。」
と作句の要訣等を説き、頗る有益に意味深き挨拶に引き続き十湖翁は、当日及び同会に寄せた雑詠の及び当夜の席題「風薫る」の選を為した。
これが披露を終わった後、翁の席上揮毫があってその作品を来客者に一幅宛分ち同10時半盛会裡に閉会したが俳句の会として県下、もちろん三重、岐阜、静岡の各地より350余名の大多数の参集したのは、正に現在名古屋に俳都を築いたと言うべく地方からの申込者を合算すると1000名を越える如きは実に空前のことであろうと。
  (次週金曜日へ続く)

 

 

 

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2013年10月11日 (金)

子規と十湖

 前回浜名湖弁天島の句碑のことを紹介した。
 今も残る弁天神社の境内には十湖の句碑に並んで子規の句碑がある。
   天の川濱名の橋の十文字
 まったく俳句の手法ではそりの合わない二人だが、これにはそれなりの訳があった。
 明治維新になり俳諧は、大陰暦から太陽暦変更し季節の混乱と政府の欧化政策で衰退していった。
明治25年、正岡子規の登場はこれまでの俳諧師の句を江戸時代以降の「月並み」と称して、その文学性の貧しさを批判していった。「俳句は文学の一部なり」と俳句の革新を起こした。(子規著俳句大要)
だが十湖ら俳諧師には批判はもとより承知のこと、江戸時代からの文化であり庶民の文字遊びであると自ら「月並みの棟梁」と称して全国の門人門弟らと吟じていた。子規の爆弾発言があった前述の年前後において変化があったといえば何ら入門者の数は減ることはなかった。
子規の没後、その俳句観は弟子の高浜虚子に引き継がれる。
 大正14年、句碑は虚子の弟子ある加藤雪腸が主宰する浜松の曠野社が建立した。
除幕式には子規の門人高浜虚子を迎え十湖も出席していた。
十湖の祝い句

 

  万世に流れつきなし天乃川

 

(次週金曜日に続く)

 

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