子規と十湖ー 欽采へ
各地に十湖の門人弟子がいると豪語している中に長野県内も含まれる。
芭蕉の聖地と思われている姨捨の地に瀬在多の助こと和楽園欽采がいた。
十湖ら一行が姨捨を旅するきっかけになったのが欽采からの手紙である。
明治39年何度か欽采から招待の手紙が届く。
十湖はその返事を送りそこなっていた。
その理由は欽采からの手紙には俳人としての自らの悩みが書き添えられていた。
十湖はそれに対する返事を出すべきかどうか悩んでいた。
この招待の手紙が届いたのも次男の友月の戦死がきっかけであったから、息子同様の歳の欽采には何とか解決できるような内容で返事をしたかったのである。
やっと返事が書けたのは半年後のことで次の内容であった。
「本をよむいとまもなく、師について学ふいとまもなければ、俳諧をするに及ばず、只只家業を出精する俳諧とおもふへし
他に二十世紀の俳諧なし、
○ 金も徳も才もなきものか学ても上達する筈はなし、何か三つうちひとつくらいはなけは駄目だ、やめるべし、只只家業をつとむるのが兄の天命也、他のことをなすなから時を待って修行すべし、家政をやふるは俳諧にあらすかし
乙巳五月十二十三日 十湖
欽采兄
色も香も嬉しきものは新芽哉
川中によき村ありて夏木立 乞批」
この手紙の内容を見た十湖の研究者の中には二十世紀の俳諧像を示しているとも云っていた。
欽采宛ての十湖の手紙は日常生活の充実感の中に俳諧の境地を求めているのだ。
単なる花鳥諷詠に終わらないところが十湖の目標とするところではないのかと。
子規等からは「風教的作物」として見られていた俳諧だが、十湖の俳諧に対する根拠は終世変わらなかった。
平成六年浜北市史編纂に当たっていた当時静岡県立大学短期大学部の岩崎鐵志教授は「それは俳諧の歴史性からして民衆として作りやすく理解しやすい特徴を生かす方策が考えられていたのではなかろうか。」(浜北市史通史下巻より引用)
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