真筆・十湖の句と風景
2024年1月 4日 (木)
2023年1月 2日 (月)
真筆・十湖の句と風景 謹賀新年「寒月照梅花」
明治44年正月、十湖宗匠はどのように過ごしていただろうか。
勅題は「寒月照梅花」宗匠はこのとき63歳になろうとしている。
前年は親友である笠井町の画人司馬老泉がこの世を去った。
常に十湖の片腕となり俳画をかいては句会を盛り上げていた立役者でもあった。
その男が76歳で師走に亡くなり十湖にとってはつらいできごとであった。
だが悲しんでばかりはいられない。
一方で十湖のもとに門人鷹野弥三郎がやってきて、結婚したい相手の親がなんとも言うことを聞いてくれないので、何とか手助けしてほしいと頼み込まれ、仕方なく十湖の養女にした。
旧姓岸つぎ当年20歳。年明けて無事結婚、つぎに長男が生まれる。
養女鷹野つぎは後に島崎藤村に師事し、浜松出身の女流文学者になった。
寒月照梅花とは「寒さの中にあって春の兆しを見つけるもの」との意だが十湖にとっては波乱含みの年頭であった。
それでもできあがった句は
月寒う梅白う年明けにけり
十湖の真筆は手元にないので、老泉画伯の俳画を披露した。
(司馬老泉の遺作)
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2022年8月26日 (金)
真筆・十湖の句と風景(10)青田
三日見ぬ細江のへりの青田かな
十湖の眼に焼きついているのは、引佐郡細江町の初夏の田園風景である。
明治14年この地に郡長として県令から推薦されて赴いてきた。
それからの5年間は、郡のために骨身を惜しんで活躍した。
それには2つ理由がある。
1つは江戸から明治へと時代は変わり新政府のもと役所ができた。
しかし、旧態依然の役場の体質を許せなかったこと。
2つ目は農業行政が古式のままだったこと。新たな農業振興が生産を高めると意欲。
こうした中で着々と事業を進める十湖にとって、田んぼの稲が生長する過程こそが自らの行動の証であり眩しく感じられたのではなかったか。
十湖がこの町を去るとき、いかに多くの住民が送ってくれたことか。
農業行政だけではなく、橋作りをはじめとする公共工事に住民の讃歌の声が溢れていたという。
(季語夏 明治18年 細江神社境内に句碑建立)
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2022年8月 9日 (火)
真筆・十湖の句と風景(9) 夏しら波
月や風や夏白波の海と湖
明治39年浜名湖弁天島の地において十湖58歳のとき詠んだ句である。(真筆では「白波」だが発句では「しら波」)
この年は弁天島にとって一躍脚光を浴びた年となったようだ。
7月東海道線の弁天島駅が開業した。
海水浴の普及に伴い国鉄がてこ入れして開業するに至ったものだが、それは期間限定の仮駅だった。
そうはいっても地元にとっては念願の駅ができたことから、盛大に開業祝賀会が開かれ十湖も招かれたはずである。
詠まれた句は風流風雅の先端を行く自然描写の句であり、十湖にとって少しばかり穏やかな気持ちがこの句に現れている。
これより1年前、十湖は信州への俳諧行脚をしている。
信州の門人からの招待によるもので、当分の間は家族ぐるみで俳諧の普及と句会を開き自らの苦悩を断ち切るかのように行動していた。
そのわけは明治37年次男藤吉こと四時庵友月が日露戦争で戦死し、葬儀やらその悲しみから四苦八苦の十湖であった。
その十湖を慰めようと信州の和楽園欣采が招待をくれたのだった。
この行脚は十湖にとってまさに慰労の旅になったに違いない。詳しくは当ブログの「姨捨紀行」をごらんいただきたい。
帰庵後の明治39年はいつものとおりの正月を迎え、6月には浜名郡会議員三期目の満期となり一切の公職より去る。以後報徳と俳諧に専念することになった。
そして迎えた弁天島駅の開業祝賀式再び大きな気炎が吐かれるかと思いきや、言われるほどの奇行ぶりは見せなかったようだ。
次男友月の死はよほどのショックだったに違いない。
月や風や夏しら波の海と湖
浜名湖の昼夜の自然風景を淡々と描いているこの句は明治41年、新居弁天の弁天神社の境内に建碑され現在も残っている。
2022年7月15日 (金)
2022年7月13日 (水)
真筆・十湖の句と風景(7) 短夜
短夜は明けたり蓑の雫より
十湖宗匠はこの「短夜」を夏の季語として多くの句を残している。その中でこの句が私は好きだ。
句からは、こんな情景が浮かんでくる。
梅雨の季節、昨夜は蒸暑くて寝苦しく、客人と遅くまで話し込んでしまった。
やがて白々と東の空が明るくなってきた。
いまさら寝るのをやめて田圃に出れば30センチほどに伸びた苗が朝露を抱いている。
邸に戻り前日物干し竿に掛けて置いた蓑が朝陽を浴びて雫を垂れている。
この朝の爽やかさはいつまで続くだろう。
陽が上がり切ってしまえば、またしても暑い夏がぶり返すだろう。
せめてこの朝のひと時をすがすがしく過ごしたいと心の中で祈る。
島崎藤村もこの思いに似た情景を文章にしている。
「露に濡れた芭蕉の葉からすゞしい朝の雫の滴り落ちるやうな時もやつて來た。あの雫も、この頃の季節の感じを特別なものにする。あれを見ると、まことに眼の覺めるやうな心地がする。長い梅雨の續いた時分には、私はよく庭の芭蕉の見えるところへ行つて、あの 短夜の頃の深さ、空しさは、こゝに盡すべくもない。そこにはまた私の好きな淡い夏の月も待つてゐる。夏の月の好いことは、それがあまりに輝き過ぎないことだ。 」と。
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2022年6月27日 (月)
真筆・十湖の句と風景(1)牡丹
あててみる人の心も牡丹かな
明治18年句集の中に同様の句が見つかった。
あて覚る己がこころも牡丹かな(十湖)
中国では牡丹は楊貴妃に例えられるようだが、十湖はこれを意識していたのだろうか。
わかるなら俺の心を見抜いて見よというのか。
雨の牡丹貴姫のなやみに似たり(十湖)
ところで、李白が43歳のころ牡丹の花の華麗さと楊貴妃の美貌が重なって漢詩を作っている。
雲想衣装花想容
春風払檻露華濃
(注釈)
雲には衣装を思い
花には容を思う
春風檻を払って
露華濃かなり
李白の詩は「雲を見れば楊貴妃の着るものが眼に浮かび、牡丹を見れば楊貴妃の顔が浮かぶ
春風が来ても一向に気にせずただ牡丹を濡らす露は月光を受けて艶やかに輝いている・・・」と。
大正10年十湖73歳の時、報徳社15周年記念祝賀会が開催され70歳以上の男女百数十名が招待されていた。もちろん十湖も出席した。この時に詠んだ牡丹の句だろうか大日本報徳学友会報に13句もの数の牡丹を発句したものが掲載されていた。
これらは、いずれも李白の詩情とは程遠いものであったようである。
あくまで「己が心の牡丹」だった。
2021年11月30日 (火)
うっかりと踏めば・・・
シャツ一枚でも過ごせた陽気が突然、木枯らし一号が吹く日に変わった。さて、こんなとき中善地の十湖宗匠はどうしているだろうか。
明治四十年初冬
”うっかりと踏めば水ある落葉かな"
つい最近まで紅葉で美しかった細道も、いつの間にか落葉に変わり季節の色彩が変わりつつある。
落葉を踏みしめながら行く細道にかさかさと踏み音が響く。
突然踏みしめた落葉が下に沈むと足元は水の中にある。
ちょっと油断していたらこんな羽目に陥ってしまった。
ユーモアと若干の諫言が見え隠れしている句だ。
鈴木惣八氏等に対し半紙などへ書き残したものだが、大正5年12月2日の新聞に句が紹介されていた。
この句についてはほかにもいわくがある。
門人金原青湖宗匠がすで亡くなった事を忍び、その功績と句を残そうと、大正5年12月10日十湖が主唱して、青湖のため地元に寄付を募った。
その結果が奏して現在の浜北区貴布弥の長泉寺に建碑の除幕式に及んだ。
併せて師の句も建てることになった。
それがこの句で、なかなかしゃれた文句で私は気に入っている。
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2021年4月 8日 (木)
真筆十湖の句と風景(6) 若水や
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2021年4月 3日 (土)
真筆十湖の句と風景(5) 俳禅一味
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より以前の記事一覧
- 真筆・十湖の句と風景(4)梅が香 2021.03.11
- 真筆・十湖の句と風景 (3)春 2021.03.09
- 真筆・十湖の句と風景 (2)梅 2021.03.07
- はままつは出世城なり初松魚 2017.03.04
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