俳人十湖讃歌 第9回 追憶(9)
浜名郡有玉村の有賀豊秋について国学、和歌を学び、赤佐村高橋月査、恒武村小栗松露の二師からは漢学及び詩文を修得、独学で仏典をも研究した。
しかし、吉平の修得することはこれだけではとどまらず、国を修め、家を興し人身を善導に誘導することに目覚めた。
それは幼年期の頃にたびたび起こった天竜川の氾濫で家を失い、田畑をつぶし家族を亡くすという地域の現状に対し出した答えだった。
十九歳になって小田原の報徳学者福山瀧助につき報徳法をきわめた。
以誠心為本、以勤労為主、以分度為体、以推譲為用の言を知ると、これこそまさに報徳の根本主義だと悟り、ひたすらこのことに集中し万事控えめに努め、信じて心から尊敬した。
世の中を利するためには報徳法を研究実践して行く事だと気付いたのである。
さらには先に独学した仏典についても難解なる部分の教えを乞うため磐田郡の可睡斎住職、引佐郡奥山半僧坊方広寺管長、富塚村法林寺住職等に就き、先に独学した仏典の難解部分の教えをうけた。
話は戻るが、いくら勉学に熱中しているとはいえ、十八歳ともなると周囲で,「妻を娶れ」という声が聞こえてくる。
親戚の勧めで近隣である蒲村の伊藤平六の次女と見合いをして四つ下の伊藤佐乃と結婚した。
俳人伊藤嵐牛に師事しながら青年時代の吉平は俳人として、報徳主義者として、夫として歩み始めたのである。
(鷹野が編集した伝記の表紙:奇人俳人松島十湖 明治42年発行)