2吉平直訴

若き十湖こと吉平は天竜川の決壊を防ぐため直談判に県庁へ

2022年5月31日 (火)

俳人十湖讃歌 第15回 吉平直訴(6) 

「彦三、これまで村の衆の意見を聞いてその実現に努めてきたが、運がいいのかその都度解決できた。だが、わしも二十四歳の戸長となった。思い付きだけで事を進めて物事が解決するとは思わん」
 吉平は隣村の彦三に今の心境を語った。
「吉平の行動が思いつきだとは思わなかったな。それでも何とか解決に繋がるのだから、お前の素質だよ。そんなに深刻に考えんでもなんとかなろうぜ。悩まれてしまうと俺もどうすればいいのかわからん」
 彦三は吉平でも悩むことがあるのかと一蹴したい思いだった。
 確かにことはいい方向へ解決してきたはずである。
 それも吉平の運の強さだけとは思いたくはなかった。
 それだけ悩みぬき、考え抜いた成果なのだと解釈していた。
「わしは二十歳の時、小田原の福山瀧助に就いて報徳法を学んできた。以来常にこの精神を貫き、人のため村のためを思い実践してきた。だが、今のままでは不十分だ」
「じゃあ、どうすればいいというのだ。俺には分からんが」
「そりゃ、みんなで力を合わせてやるしかない」
「村人も、お前のように報徳法の実践をするというのか」
「そうだ。村の衆を募り報徳社を組織化するのだ」
「できるのか。そんなことが」
「やるしかない。無理にとは云わん。有志の集まりでもいい」
「うむ、それなら集まるかもしれんな。そしたら俺が一番乗りで組織に加わる」
 彦三は吉平の説得に理解を示した。
 ――それにしても大それたことを考えている
 彦三は吉平の考えには際限がないと感心した。同時に自分も最後までついていこうと腹を決めていた。
 この年の十一月、吉平は中善地村の人々を勧誘して、福山瀧助の教えによる三才報徳社を組織化した。
 地元には、天地人三才の徳に報いることを説く報徳思想を実践するものとして、遠譲中善地支社を設立し自ら社長となった。

(完)

Odawaranite

 

 

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2022年5月28日 (土)

俳人十湖讃歌 第14回 吉平直訴(5) 

 浜松県庁に往復すること四十数回、二日おきに請願するも県官の耳に入らず、挙句に吉平を狂人呼ばわりする始末であった。
 当時の県庁の所在地は現在の浜松市中区高町ではなかっただろうか。
 これほど頻繁に出向く吉平が行ける距離からすると、このあたりが適当である。
 市中から高町まではちょっとした上り坂になっている。
 そのたびに重い足取りで、過去を振り返りつつこの坂を上ったのに違いない。
 元は浜松奉行所で浜松郡方役所となり、浜松縣庁として使われるようになった施設である。
 だが繰り返し県庁を訪ねて大声で説く吉平の様子が、扉の向こうの県令に聞こえないはずがない。
 人の一念は岩をも徹り、精神いたるところ実に何事か成らざらんと吉平の想いが通じたのか、県令はとうとう訴えを受け入れることとなった。
 吉平がこの時ばかりは高町の坂を喜び勇んで下ったに違いない。
 浜松県ができたのは明治四年十一月である。
 新任県令林厚徳が着任したのが明治五年十一月だとすると、このとき県令室には誰がいたのか。
 石黒副県令が県令より少し後に着任したので石黒であるはずがない。
 実は林の腹心に事務官の大江孝文がいた。
 県令よりいち早く着任していたのはこの男であった。
 林は浜松県に赴任する際、石黒のほかにもう一人、腹心とも言える人物を一緒に着任させていた。権典事(ごんてんじ)大江孝文である。
 大江は、林の幼い頃から付き合いのある徳島藩士で、年齢は林より一歳年長。
 儒学一筋に打ち込んだ根っからの教育家で、十四歳で家を継いだ後は藩主蜂須賀斉裕に仕えて、世子茂韶を教導したほどの逸材であった。
 彼もやはり林に乞われ、額田県に続いて浜松に赴任、学校教育行政に携わったのであった。
 大江は雷典事とあだ名がつけられるほど、態度が威圧的な人物だったが、このときは吉平の請願理由に納得し、自ら渡船の許可を下したのである。
 吉平の相手の人物はともあれ、こうして渡船の便を開くことができた。
 天竜川を日に往来する者は数百人におよび、皆その便を喜んだ。
 吉平の行動を狂人扱いにしていた村民もこの快挙に大満足であった。
 以後吉平の行動を信ずる者が多くなり、今回の渡船の許可はのちに橋の架設へと導いていくのである。Toyonisimura01
(吉平の成果は村誌にも載っている偉業となった)

 

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2022年5月26日 (木)

俳人十湖讃歌 第13回 吉平直訴(4) 

  明治五年二十四歳のときである。
 いまだその世界を知らない若造のすることであった。
 浜松縣庁へ来ると、そのまま縣令室を目指そうとしていたが
「待て、待たんか」
 最初の日は県官に腕づくで止められる。
 当の本人はあまりしょげることもなく、さばさばして日を改めて出直すことにした。
 数日後、今度は事務室へまっしぐらで向かい
「豊田郡匂坂村に通じる渡船開通の件の請願に参りました」
 と大声を発した。
 事務所へ来られては県官も趣旨を聞かねばならず、その場で吉平に話を続けるよう指示した。
 前回相手にされなかったことを反省し、手を変えてきた吉平の思うツボである。
 差し出した請願書を、集まってきた県官に見せながら大きな声でしゃべり始めた。
「わが村を流れる天竜川は源を諏訪湖に発し、流程四十四里の大河にして、沿岸の村落その利を蒙らざるなく、貨物の運搬田畝の灌漑悉くこの水に依らざるはなし。されば沿岸の村民皆この水をもって天地となし、これによって産を営み、妻子家族を養う、その数幾戦の多きに及ぶ。
 然りといえども、もとよりこの川は急湍矢の如く、平水の時その流れに随いて下るもなお破船の憂い有り、為に生命を損する者古来頗る多し。いわんや一朝水潦の秋至れば濁流こんこん岸を浸して暴流となり、沿岸の人民皆治水の策を得るに術なし」
 朗々と説く吉平の態度に対し、県官たちは若造の大言壮語と誤解し侮蔑の眼で見ている。
「どうせ口では大きなことを言っても、実行が伴わないだろう」
 県官たちはお互いに顔を見合わせ、冷ややかな言葉が囁かれた。

(当時の浜松縣庁 元々は浜松奉行所)
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2022年5月24日 (火)

俳人十湖讃歌 第12回 吉平直訴(3) 

「吉平も百姓代になったか。村の衆からいろんな頼みごとがあっただろうな」
 彦三が吉平の顔色をうかがいながら訊いた。
「ああ云ってきた。渡船の許可はもらえないだろうかとな」
 その頃、天竜川には未だ橋がなく、村人は東西の交通に不便を痛感していた。
 せめて渡し船があればとの思いから、百姓代になった吉平に期待を寄せていた。
 いままでは官吏と住民を橋渡しする人物がおらず、県への苦情も村民の愚痴だけにおわり、何ら解決することはなかった。
 しかし、今度は違う。吉平が行動力で皆の前に見せたのだ。
「俺も手伝うので、ひとつ県へ直訴でもやってみんか」
 彦三が協力するというのである。だが吉平は納得しなかった。
「村の衆から出た願いだ。みんなで一緒に取り組まないと意味がないではないか」
 吉平の云うことに一理あった。
 村の皆が一緒に行動すべきはずである。
「村の衆はお前の力が未知数なので、云ってはみたが本気ではなかったようだ」
 彦三のことばに吉平は薄々勘づいていた。
 仕方なく請願書は自分が作った。
 村人は誰もそれに異議を唱える者はなく、力を貸そうと申し出る者もなかった。
 吉平の親戚筋の者でも吉平が一人実行に移すことを危ぶんでいた。
「やるなら、わし一人でやってやる」
 吉平は今、県庁へ直談判してみようと思っていた。
 営繕司御用係を務めた経験から少しばかり県への対応には明るくなっている。
 それだけに妙な自信が無謀な行動へと駆り立てていた。

Kitihei
                                                      (青年時代の松島吉平)

 

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2022年5月22日 (日)

俳人十湖讃歌 第11回 吉平直訴(2) 

 中善地付近の決壊による切込み口は池になり、のちに吉平の俳号である「十湖」を附して「十湖池」と呼ばれるようになった。
 吉平が自らの資産を供出して、村人を救済してくれたことへの地元からのささやかなお礼だったに違いない。
 この事件以来、近隣では
「吉平はええ奴だ。みんなのために自分とこの食いもんを分けてくれた」
 と評判になった。
 うわさはさらに四方に広まっていった。
 だが、吉平にはいっこうにお構いなく、日夜、川の決壊を防ぐ手立てはないものかと考えあぐねていた。
 そんな矢先、浜松県庁から呼び出しがあった。
「松島吉平に営繕司御用係を命ず」
 あまりにも突然の事であったが、吉平にとっては願ってもないことだった。
 営繕司御用係はその年の十一月で終わったが、実績が功を奏したのか明治四年以降六年三月までは中善地の百姓代を命ぜられた。
 百姓代とは庄屋のようなもので村の公職を歴任してきた。
 十湖は体格強健にして、一見すると偉人のようで同年代の青年たちとは風格が違っていた。
 見方を変えれば、態度は傲慢、口ぶりは頑固であるが、正義感の強い快男子であったともいえた。
 俳句はもちろん報徳仕法や法律にも精通し、修めるべきものは修め、為すべきことを為し公務要職を務めた。
 この年の十一月八日には長女るめが生まれた。
 吉平にとって大きな励みとなり、村人のために尽くすことに一段と熱が入った。

(当時の大川風景…十湖が何度もこの橋を渡ったことだろう)
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2022年5月20日 (金)

俳人十湖讃歌 第10回 吉平直訴(1) 

 慶応四年、長かった徳川幕府の終焉を迎え、年号は明治となった。
 吉平このとき二十歳である。
 年号が変わったとて近年まれなる大雨で、天竜川はいたるところで決壊した。
 中善地村中島で百間、倉中瀬村百二十間の被害であった。
 万延元年の決壊の教訓として、村民で築きあげた堤が見る見るうちに崩れていってしまった。
「彦三よ、せっかく築いた堤がいとも簡単に壊れてしまった」
 吉平は、隣村の彦三に、崩れて流れ込む田畑の様子を見ながら言った。
「何度造っても自然にゃかなわねえ。荒地になっては食う物にも困る。何とかしなけりゃ」
 彦三の村には家を流出した者がおり、明日の食物を心配する者もいた。
 あまりの惨事に為す術がなかった。 
「彦三、後について来い」
 何を思い立ったのか吉平は走りだした。
 走った先は自分のうちの倉だ。
 天竜川から走っても五分とかからぬ距離にあり、幸い倉には水が届いていなかった。
「今から倉の中の米、麦を出すんで手伝え。村の衆に分けるぞ」
 吉平は怒鳴って彦三に言い放った。
「お前のとこの分はどうするだ」
 心配になって彦三は吉平に訊ねたが、それも全部出せという。
「困った者がいる以上何とかしなきゃいかん」
 吉平の意志は固かった。村の衆を呼び集め全てを分け与えてしまった。
 この様子を見ていた母親が体を震わせながら
「吉平、自分たちの食べる分はとってあるのか」
「そんなことは後から考える。まず困っている者に、ある者がやるのが報徳の精神じゃ」
 母は呆れ顔で何も言わなかった。
 やがて、倉の中の食物があらかたなくなったとき、自分らの食べる分は買いに行くといってその場を立ち去った。

                         (当時の天竜川)
Tenryu

 

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