はままつは出世城なり初松魚
明治から大正時代まで浜松地域を中心に名を馳せた俳人松島十湖の有名な句である。
名句かどうかは、他者に任せるとして句の意味するところはわかりやすい。
季節は初夏。浜松城は青葉に繁り初鰹(初松魚)のおいしい季節となった。
庶民がこうして初鰹をおいしく食べれるのも立派な領主のおかげだという。
ここ浜松城は出世城といわれ、領主は言うまでもなく若き日の徳川家康。
29歳にして岡崎城を離れ、浜松に居城して当時の曳馬城改め浜松城主として君臨した。
以後17年間遠州地域を治めていたが、武田信玄の猛攻に遭い、かろうじて城を守った。
それからは、この時の教訓が生かされ、将軍にまで上り詰めた縁起のいい城となった。世間では「出世城」だという。
一般的にはこのような想いで詠んだ句だという評価である。
しかし、十湖が句で表現したかったのはこれだけだったろうか。
実はこのなかに、自らの生き方をも述懐していたのではないかと思われるのである。
大正十三年四月十三日、当時の市内野口町八幡神社には朝から春雨が降りそそぐ。
句碑建立の午前11時ごろには止んだのだろうか。孫の松島保吉の手により除幕式、終わって十湖の立句で正式俳諧を催す。
句碑は市内中区の八幡宮神社境内に今でも存在する。このとき十湖76歳、亡くなる2年前ことだ。
晩年を意識すれば、誰しも過去を振り返ることがある。
十湖もこの句を作りながら過去が甦ってきたのではないだろうか。
農家の子に生まれながらも、住民の先頭に立ち天竜川の洪水に立ち向かったこと。
村長として村を治め、その手腕を買われて引佐麁玉郡長となり役所改革、農業振興に辣腕を奮ったこと。
その功績は県が高く評価し、報徳者として県会議員になって活躍したこと。
同時に俳聖として全国で知られ、多くの門弟に囲まれた自分の生き様に納得し、これも「浜松に住んでいたからこそ成せることだった」と述懐してはいなかったろうか。
十湖にとって人生そのものが浜松城であり出世城だったともいえる。
句碑建立の日、祝宴の初松魚を食べながら八幡神社から遠望する浜松城は十湖の眼にはそう映ったのかもしれない。
十湖の菩提寺である東区豊西町の源長院の墓苑には墓の隣に「はままつは出世城なり初松魚」の句碑が建っていて彼の功績を讃えている。
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