俳人十湖讃歌 第35回 議員活動(7)
明治十三年が明けて、吉平に県官として静岡赴任の命が下った。
静岡県十六等出仕に任ぜられたのだ。
吉平の県会議会における名声が大迫県令及び石黒大書記官に認められた結果であった。
――この地を離れる前に何とか解決しておきたい
静岡赴任前日になって、急きょ浜松第二十八国立銀行へ行く。
かねて申し込んでいた借入金を受け取りにである。
このころ銀行といえばここしかなく、現在の浜松市内伝馬町にあった。
明治11年1月10日浜松市内に第二十八国立銀行が開業した。
第二十八とは全国で二十八番目に設立という意味で、静岡県下最初の国立銀行であった。(当時全国で一五三行あり)
開業より6年前の明治5年(1872年)国立銀行条例が制定され、銀行に資本金六割相当の官省札を上納させ、これを金札引替公債証書に換えさせ、この公債証書を抵当として同額の銀行紙幣を発行させる。
また残る資本金四割は、本位金貨でこれを積みたて紙幣の兌換に充てる、というものであった。
国立銀行の浜松誘致は、気賀林・気賀半十郎・横田保・青山宙平(磐田豊田山名郡長)に井上延陵・小林年保の士族を加えた六名によって計画され、九年改正国立銀行条例にしたがって創立願を提出し、十年十月十八日「第二十八国立銀行」の名称を受け設立の免許をうけた。
頭取は士族の井上延陵、最高出資者の平民気賀林は副頭取であった。
株主の中には金原明善の名もあった。
明治二十年代に入って地方銀行が乱立始めたが、中でも笠井町には明治十四年に笠井銀行本店が設立し、商業がいかに盛んだったかを物語っている。
さて、浜松第二十八国立銀行のことであるが、この日は銀行の休日である。
「いつまで待ってもわしの申し込みに対する回答がない。どういうわけか」
吉平は役員を呼び出し、来店の理由を告げた。
「その、おっしゃる額が大きいので、近く開かれる株主総会後にお答えしようと思っていたのですが」
と役員は恐る恐る切り出した。
「銀行があるのは何のためだ。殖産興業を援け、金融をして円滑活発にすることだ。しかるに今日わしが頼みに来たのにそれを拒絶するとは甚だその意を得ん」
吉平が筋を通して詰問すると、怖気づいた役員はついに承諾して金五千円を渡したのである。
この頃の五千円は決して少額ではない。
ことに銀行の休日をもって談判した結果だけに、吉平は満足を得たのである。
当時の吉平の信用の厚きを知るべきであろう。
(完)
(第二十八国立銀行発行紙幣)
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