5議員活動

戸長としての実績を評価され県会議員を命ぜられた吉平は政治家として初議会に登壇する。その活躍ぶりはいかに!

2022年8月 7日 (日)

俳人十湖讃歌 第35回 議員活動(7)

 明治十三年が明けて、吉平に県官として静岡赴任の命が下った。
 静岡県十六等出仕に任ぜられたのだ。
 吉平の県会議会における名声が大迫県令及び石黒大書記官に認められた結果であった。
 ――この地を離れる前に何とか解決しておきたい
 静岡赴任前日になって、急きょ浜松第二十八国立銀行へ行く。
 かねて申し込んでいた借入金を受け取りにである。
 このころ銀行といえばここしかなく、現在の浜松市内伝馬町にあった。
  明治11年1月10日浜松市内に第二十八国立銀行が開業した。
 第二十八とは全国で二十八番目に設立という意味で、静岡県下最初の国立銀行であった。(当時全国で一五三行あり)
 開業より6年前の明治5年(1872年)国立銀行条例が制定され、銀行に資本金六割相当の官省札を上納させ、これを金札引替公債証書に換えさせ、この公債証書を抵当として同額の銀行紙幣を発行させる。
 また残る資本金四割は、本位金貨でこれを積みたて紙幣の兌換に充てる、というものであった。
 国立銀行の浜松誘致は、気賀林・気賀半十郎・横田保・青山宙平(磐田豊田山名郡長)に井上延陵・小林年保の士族を加えた六名によって計画され、九年改正国立銀行条例にしたがって創立願を提出し、十年十月十八日「第二十八国立銀行」の名称を受け設立の免許をうけた。
 頭取は士族の井上延陵、最高出資者の平民気賀林は副頭取であった。
 株主の中には金原明善の名もあった。
 明治二十年代に入って地方銀行が乱立始めたが、中でも笠井町には明治十四年に笠井銀行本店が設立し、商業がいかに盛んだったかを物語っている。
 さて、浜松第二十八国立銀行のことであるが、この日は銀行の休日である。
「いつまで待ってもわしの申し込みに対する回答がない。どういうわけか」
 吉平は役員を呼び出し、来店の理由を告げた。
「その、おっしゃる額が大きいので、近く開かれる株主総会後にお答えしようと思っていたのですが」
 と役員は恐る恐る切り出した。
「銀行があるのは何のためだ。殖産興業を援け、金融をして円滑活発にすることだ。しかるに今日わしが頼みに来たのにそれを拒絶するとは甚だその意を得ん」
 吉平が筋を通して詰問すると、怖気づいた役員はついに承諾して金五千円を渡したのである。
 この頃の五千円は決して少額ではない。
 ことに銀行の休日をもって談判した結果だけに、吉平は満足を得たのである。
 当時の吉平の信用の厚きを知るべきであろう。


(完)Sihei

(第二十八国立銀行発行紙幣)


 

 

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2022年8月 5日 (金)

俳人十湖讃歌 第34回 議員活動(6)

 厳格に品質の精査良否の判別を図り、さらに等級を付して売買の法を定めたのである。
 これにより養蚕を営むものは皆競って仕事に励んだ。
 だがこれだけではない。
 養蚕の取引を一歩進め上武信等の諸州へ販路を広げる道を開き、誰もがその恩恵を受けることができたのである。
 しかし長続きはしなかった。
 横浜に送る繭の荷を積んだ船が、折からの激浪のため伊豆沖で転覆したのである。
 搭載の繭はもちろん、乗組員七人のうち四人が海の藻屑となった。
 吉平の損害額は千五百円あまりに及んだ。
「せっかく品質改善もして生産したのに、これでは中止せざるを得ない」
 吉平はどうすれば損害を取り戻すことができるのかを苦悶していた。
「今は銀行からの借入金を頼るしかない」
 浜松の銀行に損害額の整理をすべく借入金の申し込みをしたのである。
 一年が過ぎ二年が過ぎ、いっこうにその回答が銀行側から来ないのであった。

(浜松第二十八国立銀行)
Hamamatuginko

 

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2022年7月30日 (土)

俳人十湖讃歌 第33回 議員活動(5)

 一方、吉平は議会活動の傍ら地域の問題で悩んでいた。
 事の発端は明治十年静岡県より中善地村戸長を命じられた頃に遡る。
――この年はこれまで数度の洪水で辛酸を舐めてきた吉平が地方自治にも関わり、県の公職の傍に数度流出した家財をようやく回復することができてきた。
 そのうえ次男藤吉が生まれ、少しばかり目出度くもあった。
 吉平自身の努力とも言えるが、もしかしたら母親の力かもしれなかつた。
 母親は主に農事養蚕等で働いており、吉平も共に地方改良のため、国のために努力し家においては寸暇を惜しんで母親、妻子を助けてきた。
 母親とも一緒にささやかな商売も営んだ。
 これを見た居村の者は吉平らに続けとばかりに養蚕の業を始め、戸々で飼育し秋になれば諸国の商人がこれを買って行くことで、村にはまた新しい仕事が生まれた。
 蚕が村の主要産業となったのだ。
 ところが、ここに質の良否を問わず暴利を貪る輩が現れた。
「蚕が商人に買い叩かれている。これではいかん」
 吉平は憤慨して、急ぎその弊害をただした。

(当時の浜松駅)

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2022年7月24日 (日)

俳人十湖讃歌 第32回 議員活動(4)

 同年五月十日、三十一歳になった吉平は府県令規則による最初の県議会に臨んだ。
 第一回通常県会が追手町の県会議事堂で午前八時開場し、その日のうちに抽選で席順を決定した。松島吉平は三十八番となる。
 五月十二日、出席議員三十一名欠席十一名の中で投票が行われ議長、副議長が決まった。
 同月二十日定刻午前八時、開場式。大迫県令の演説を行い、議長が答辞を朗読、議員の一人が和歌を朗詠しその後各議員が祝辞を朗読した。
 このとき吉平は祝句を披露する。

     今日やそのふじの笠雲とれにけり

 初議会はこのあとも議員の祝辞が続いた。
 まさに初議会での登壇は祝辞あり、和歌あり、俳句あり、主張ありの議員ひとりひとりの個性あふれる発言が聞かれたのである。
 明治という時代の成せる業だったのである。

Tsubame-1

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2022年7月23日 (土)

俳人十湖讃歌 第31回 議員活動(3)

 吉平は十年二月開会の初県民会においては四十一番議員としてその論法はなはだ明晰に、しかも単独で建議書を提出して自己の理想を悉く披歴した。
 予算の削減、収税のありかた、区長戸長らの職分など多岐にわたった。
 予算の削減についての主なものは次のとおり
民費減省の該目
一、公布要件以外は一時を省けば一費を省くのもと理あれば可なり的省略を懇願すること
一、区戸長の減員は冗費を省く第一にして事務挙行は却って至便たるべきこと 
一、各村常使を廃し一区中常使一名を置き担任せしむること
  ただし一区内にして距離一里外にわたるものは地勢便宜により二名三名置くも妨げない、などである。
 明治十二年三月、「府県会規則」にもとづき第一回静岡県会選挙が実施される。
 議員の定数は各郡の戸数五千戸ごとに一人とされた。
 総計は四十二人、議員の任期は四年で二年ごとに半数が改選されものであった。
 吉平の住む豊田郡は人口が一万二千八百十二人のため議員定数は三人となる。
 吉平はそのうちの一人として初代静岡県議会議員に選出された。

Meijimura1202

 

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2022年7月20日 (水)

俳人十湖讃歌 第30回 議員活動(2)

 明治十一年には郡政所制が発布し、県内に十三ヶ所の郡政所を設置統治するも、郡長のなり手には各地方の豪農もしくは名望家を網羅して郡長を任じた。
 地方の有力者は県郡吏に任命し政治の円滑と県民の心を治め、政治に目覚めさせる手段とした。
 翌年一月、全国的な自由民権運動の高まりは静岡において政治結社「参同社」を誕生させた。
 その社名が示すように駿・遠・豆三州の有志が親睦を深め一致協同することを目的とした組織であった。     
――演説を起こし、一切人民の知識を開達するに在り
 という主旨を掲げ、演説会などを通じて県民啓蒙の先導を進めていた。
 中心的役割を担っていたのは駿河の磯部物外、平山陳平ら遠江では岡田良一郎ほか、伊豆の依田佐二平など県下で著名な官吏、士族知識人、豪農商であった。
 同じころ浜松でも結社が誕生した。
「己卯社」である。
 主唱者は吉平のほか近藤準平、竹村太郎ら遠江の名望家である。吉平はその副社長となった。
 社の主旨は
「自家の保安より経世済民の大件に至るまで各自の思想を吐露し討論琢磨を以て一般の便益を謀らんとするにありこの明時に遭際してしては是正に諸忽すべからずの要点なり而して議論憤慨に流れて政府に抵抗せず法律に触れることなくまた因循姑息の弊なく、かつ論旨高尚に渉るなく又文飾の譲弁を好まず只至当公平を旨として時期に適切ならん事を要請するにほかならず勤めて冗費を省き、該社を永遠に保存し益盛大を致するの日に方りて」
 とあり。要するに
 ――自家保安の事よりもって経世済民の大件に至るまで、およそ社会万有の事理に就き各自思想を述べ,討議を尽くし、もって社論を協定しあるいはこれを官府に献じ、あるいはこれを新聞社に投じもって官民の便益を助ける
 としていた。
 遠江初の民権結社は、国会開設運動において静岡の参同社とともに口火を切るはずであった。

Kenreisitu

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2022年7月16日 (土)

俳人十湖讃歌 第29回 議員活動(1)

 吉平は公的な活動をする一方、俳句の方は師匠嵐牛の白童子を受け継いでいた。
 その師匠も明治9年79歳で死去。師の遺言により小築庵春湖に師事することになる。
 師の法要を営みながら政治活動をすることは忘れなかった。
 当時の県内の政治状況を振り返ってみよう。
   駿遠豆三州はいずれも小さな藩で、もしくは代官の分割区制によって、それぞれ政令を異にして統一的制度にはなっていなかった。
 明治二年、版籍奉還になり旧藩主の官職が免ぜられ、徳川亀二助(家達公)は駿府国府中城主から静岡藩知事となった。
 明治四年、廃藩置県の令が発せられて静岡藩が廃止され静岡県、韮山県が設置されて遠江全域が浜松県となったが、明治九年には浜松県は静岡県に併合された。
 さて、同年吉平は浜松県公選民会議員として第二大区二十九小区より出て弁論家として名を挙げていた。
 議席番号六十番なので議場六十番、松島吉平としていかなる時でも快弁の起こらないことはなかった。
 その年八月浜松県が廃置となり静岡県に合併されると、九月一日から同会も遠江国公選民会と換わり一段と盛んになった。
 十二月二十四日今度は静岡県より県会議員を命ぜられ、議員活動は吉平にとってまさに「水を得た魚」であった。
 同日県会の開場式があり祝辞を述べた。
 以後、議員として発する言葉は誠意をもって県民のために尽くし、人間不義のためには死すとも屈せずと心がけ、正義のためには堂々と議場に立ち懇切な説明をした。
 中でも遠江、駿河、伊豆三国諸川の堤防費に関する案件では率先して他議員数名とその現地調査をし、わずか数日で正確な調査結果をもたらした。
 そのため県会は事実をもとに政府あて建議し、相当の額を国庫に請求することができたのである。
 ここに吉平にとって川との戦いの初戦の一部を実現した思いであった。

 

Toyodahasi
(天竜川に架かる豊田橋)

 

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