7郡長異彩

静岡県引佐麁玉郡長として気賀に赴任、行政の長として異彩を放つ活躍をする。俳句の道は忘れたのか吉平!

2022年10月 6日 (木)

俳人十湖讃歌 第57回 郡長異彩(15)

 明治四年欧米の文化視察に出た岩倉具視一行は、イギリスでビール工場を見学し、醸造から貯蔵までを学び、日本人の技術で自信を持ってビールを作れると確信した。
 帰国後、実現したのは明治二十一年より「キリンビール」、明治二十二年「札幌麦酒株式会社」今日のサッポロビールに至った。大阪でもビール醸造会社が、「大阪麦酒株式会社」という名称で設立されブランド名は「アサヒビール」であった。
  もし明治十五年の時期、吉平等発起人が出資者間の不協和音を解消できていたならば、日本人初のビール会社が出来たはずだったのに。夢と消えた出来事だった。
       
 明治十九年七月二十七日吉平は思うところがあり、突然部下に
「三遠農学社の事務所を作り、農業の振興に役立てたい」
 と指示、あまりの唐突なことに部下たちは怪訝に思った。
 だが農学社は着々と事業を展開し実績を重ねてきているのに、未だ専用の家屋を持たなかった。
 会合といえば寺院などを借用し甚だ不便であった。
 それを憂い吉平が自費で空家を購入し、その家屋を気賀村の細江神社境内に移転改築したばかりであった。
 建坪は六十三坪あり農具や寝食できるよう器物や夜具なども備えていた。
 吉平は、ここを三遠農学社の事務所として改築したいというのである。
 部下たちにしてみれば提案は地域にとって不満が残るところか、待ち望んでいたことであり、吉平から言われたことで、むしろ弾みがつき直ちに建設に着手した。
 当時の新聞によれば、
 ――号令疾風の如く役夫の事を執ること防火夫の火事場にありて奔走する如き有様なれば迅速にして八月十日には早五十一坪余の二棟の家屋が出現した
 とあった。
   同月十六日静岡県より突然に郡長非職の辞令があった。
 同月二十二日を期して吉平は故郷に帰ることになる。既に家族は帰していた。
 吉平にとっては既に予期していたことであり、自ら郡長辞任を届け出ていたのである。

(三遠農学社の事務所)

Nogakusya
(完)

 


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2022年10月 4日 (火)

俳人十湖讃歌 第56回 郡長異彩(14)

 地方財界は、この運の強い、やる気の男を見逃すはずはなく、地域の産業振興にと担ぎ出そうとしていた。
 吉平は地域経済界の実力者で敷地・長上・浜名の三郡の郡長竹山謙三と諮ってビール製造会社「酩醸社」の設立を計画した。
 同年十二月二十二日地元函右新聞によれば資本金五万円、一株十円にて五千株発行、取締役は十株以上、役員の任期は一年、毎年六月十二日株主総会を開催など会社の詳細が伝えられていた。
 実際、発起人には三十人が名乗りを上げ、いずれも吉平の社長を希望した。
 だが如何せん前述のとおり公職にあり無理な相談である。
 しからば他の者ではどうか、残念ながら出資間の不和を生じ、この計画は泡と消えてしまった。
 わが国のビール製造はこれより以前に遡る。
 最初の出会いは江戸時代鎖国政策下オランダ人が、ビールを持ち込み、それを蘭学者達が飲んだという。
 以来日本において初めてビールが作られたのは、ノルウェー生まれでアメリカに帰化した醸造技師ウィリアム・コープランド(1832~1902)によって、横浜で製造された。これが日本発のビールとなった。明治三年のことである。

Hotaya
(笠井町の鹿鳴館風俗を取り入れた広告。老舗呉服店保田屋のもの)


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2022年10月 1日 (土)

俳人十湖讃歌 第55回 郡長異彩(13)

 まさに仕事以外では、俳句の普及が農業振興の思想的背景としての報徳の精神を併せ持ち、地域振興・文化の隆盛に役立っていった。
 ちなみに当組織の社則を抜粋し見てみよう。
一、社員は地域に居住する人
二、本社活動は毎月第一日曜日、社中輪番で開会する
三、社員は同等の権利で社長を定めない。幹事四名を社員より投票、一年ごと改選
四、親睦、節約を旨とし品行正しく俳諧の大道を維持
五、社員は毎年一円二十銭を積金とする
六、毎回各自弁当持参
七、会日は発句の提出は自由
八、入退者は社員二人以上の保証で許可
 以上をもって組織し一時は社員数百名に達した。
 社則はどこかしら報徳社の社則と似ているふしがあり、報徳の精神がこの中にも息づいているようだった。 
 明治十五年の暮れには地元天竜川に住民待望の豊田橋が着工した。
 吉平が発起人となり、まさしく出身地にとって悲願とも言える橋が出来るのである。
 郡内の宮口村には五反田橋、引佐川名村にはにも新橋着工、花平村には三花学校が新築を予定した。
 村道は改修もしくは新築するなど土木関係の政策は次々と着手し、後に吉平が道路郡長とまで言わしめた成果の列挙であった。
(引佐地域で俳諧が盛んだった頃の柳風舎の運座)
Inasaunza

 

 

 


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2022年9月30日 (金)

俳人十湖讃歌 第54回 郡長異彩(12)

 明治十八年四月、またしても連日にわたる降雨のために天竜川が危険に瀕した。
  吉平の近郊倉中瀬村弁天というところでは数十間の堤が激流により崩壊寸前だったが、沿岸の村人が必死になって堤防を守り大事には至らなかった。
  三月後のこの日は雨の余勢が一段と強く、とうとう河水が氾濫するに至った。
 村民たちは防災で既に疲弊しており、氾濫後は集中力もなく、もはや成す術がなかった。
 古老の一人が
「もう万事休すじゃ。吉平郡長に知らせ、助けてもらわまいか」
 と村民から若い男を選び、馬車をとばして気賀村在任の吉平のもとに急を告げさせた。
「吉平郡長様、天竜川の氾濫で村は壊滅的です。どうか一緒に来てもらえませんか」
「わしは郡長の公職にあるゆえ軽思の行動はできぬ」
 と吉平はいったんは思いとどまったが、危難の甚大なるを知って傍観しがたく、直ちに郡長辞職書を作成し机の引き出しに入れ置いた。
 村民の用意した馬車に乗り込み帰村すると、使いを村中のみならず遠近に走らせ、有志、人夫合わせて三百人を集め、自ら叱咤督励した。
 その結果、五日間で水防を完成させ、西河岸五十余村の田畑を救い多数の人心を安堵させることができたのである。
 道理からいえば、公職にある身が独断で他郡に出張するなど非常識ではあるが、吉平の報徳精神よりすれば、自らの責務の軽重を識別していたというほかなかった。
 この事態に書記の河野は郡長に事故のないことを一心に祈っていたことは云うまでもなかった。
 これは一例にすぎないが、独断で河水を防いだときは人夫費四十円を自費であてがい、当時のこの金高は郡長の一ヶ月俸給にも値していた。
 総じて吉平の仕方は郡長時代の事業においても軽きを抑え、重を進めた。
 冗費奢侈を極度に抑え、公的な施設改良には出費を惜しまなかったのである。
 一方、公務の傍らでも俳諧の道の研鑽を忘れることはなかった。
 郡長就任地の気賀村では俳句の結社西遠吟社を興し、月一回の例会を開き集まるものは毎回数十人であった。
 句作のうちにも報徳精神が強く流れていたようだった。
 こうして、常に激務の中を突き進んできた吉平郡長だったが、風流の道は怠らなかった。
 吉平は県吏として静岡に在職中は「静岡吟社」という俳句団体をつくったが、引佐へ郡長として来てからは「西遠吟社」をつくり公務の傍ら、行った先々で祝辞の後などは俳句を詠み、筆をとっては残してきたのである。
 この俳諧西遠吟社は地域文化の高揚にも貢献し農業振興とも重なり、住民不在の行政から住民主体の行政への足がかりとなった。

 

(当時の天竜川の網漁)
Tenryu_2

 

 


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2022年9月27日 (火)

俳人十湖讃歌 第53回 郡長異彩(11)

 話しは前後するが明治十五年八月、郡長として赴任して以来、公務の傍らさらに報徳法を広めようと有志らで西遠農学社を創立した。
 この時の主旨は「農会の利益たるは例えば棒にて担ぎしものを車に換えれば凡そ人の力を増し、資金は千円なるも千人にて出金すれば一円にて千円の値を得るが如し。この手段は労苦にあらずして安楽の種なり。」と。
 郡長としての公職にあるうちは、自らが主唱者になり行動するのは憚れた。
 自らと異体同心とも言うべき腹心の友である松島授三郎と野末九八郎らを報徳法の提唱者として、吉平自身は郡長としてその後押し役に徹した。
 後に三遠農学社と改称し、引佐のみならず三河方面や駿河方面にも広がり、組織されたものは数百社に、その社員も二万人を超えた。時代が組織を必要としていたのだった。
 先に創立した報徳遠譲社とともに日増しに実績を上げていった。
 その後、滝助系の報徳法による分社は遠州だけで二百余社、三遠農学社一系分社、三重、愛知の両県に七十余社を数えるにいたった。
 こうして相州柏山の尊徳出身地より発した芽は、岡田系の遠江報徳社派の隆盛をも合わせて、遠州においてもっとも花咲き実ったというべきであった。
 吉平は引佐の地場産である琉球藺草と養蚕の普及にも乗り出した。
 公共工事での実績は
 ――枚挙の頬に耐えぬほどであり、歳月流れるがごとく、快刀乱麻の敏腕は一頭地を抜いて郡民に崇敬された
 と報道されるほどであった。
 ちなみに、新架設の橋梁三十五 延長三百八十一間余 費用六千七十一円、道路の改修三十九里一丁五十八間 費用一万九千四百十円であったが、この全部をことごとく地方の有志の義捐金で賄い、県費には一厘一銭も頼らなかった。
 こうした事業推進の原動力は、「報徳法」にあったと云ってもよい。

 

(郡長自身が発明したイグサを利用した養蚕網)
Igusaami_2

 

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2022年9月24日 (土)

俳人十湖讃歌 第52回 郡長異彩(10)

 それから十年後、既に渡船の時代を過ぎ、下流に架かった天竜川橋を見るにつけ、橋の必要性を感じていた。
    明治十五年九月十四日吉平三十五歳のとき発起人となり、天竜川両岸の有識者と連携し架橋の運動を展開したところ、翌十六年二月十八日早いもので資本金も集まり完成し、橋は長さ千四百七十m幅三.六m、豊田郡末島村(現在の豊西町)川岸から対岸の豊田郡匂坂村(現匂坂中)に架けられた。有料の橋で「豊田橋」と名づけられた。
 当時の橋つくりの工法は人力で川の中に杭を打っていくもので、一本の杭を打つのに綱を引く綱子衆三十人から四十人が関わった。今に残る天竜側の歌に「ザンザ節」というものが伝えられているが完成までの間、この歌が風に乗って吉平の耳にも届いたのではないだろうか。
 ザンザ節
 ・・・天竜川原で昼寝をしたら(ヤレザンザ、チョイトザンザ)
     鮎に瀬上り夢に見た(ドッコイショ)
     お茶はお茶でも見付のお茶は(ヤレザンザ、チョイトザンザ)
   海を渡ってアメリカへ(ドッコイショ)
   芋がうまいと褒めてはみたが(ヤレザンザ、チョイトザンザ)
三っ日続けばママほしいドッコイショ)・・・
橋が完成するのを待ち望んでいた吉平(当時は引佐麁玉郡長)にとって、この句は橋が実現したことに対して、万感の思いを豊田橋開橋式に認めた句であったにちがいない。 
 
   春風もふき渡なり橋あらた

Toyodahasi

 

 

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2022年9月20日 (火)

俳人十湖讃歌 第51回 郡長異彩(9)

 その初めの頃は吉平がそれぞれの社員の家へ行っては激励した。
「元怨金を払うほど収穫がないなら、毎晩縄をなったらどうかな」
「それでよければ簡単なことだ、毎晩でもやる」
 と社員は同意した。
 吉平は自ら筆頭にたって毎夜縄集めに各戸を廻り、集めては安価で売り社員中の救貧費に当てていった。
 こうした吉平の仕方は各地に知れわたり、営繕司御用係、中善地百姓代等を勤る傍ら、かねての地域住民の念願であった中善地と匂坂村とをつなぐ渡船の便を開くことにつながっていった。
 明治六年戸長制度が実施されると、吉平は浜松県より中善地戸長を拝命した。
 地域における諸問題を解決しながら、制度の改革にもつとめた。
 その実績を買われ大迫県令の奨めで県官に奉職し、県会議員等の公職を歴任、三十三才にして引佐麁玉郡長に就任し、さまざまな事業を遂行していった。
 中でも天竜川の治水にあっては金原明善の事業にも協力し、自らは念願の豊田橋の架橋を図ったことが後世に知られる事実である。
――遡って明治五年、対岸へ行くにはさらに南下して池田の渡しを利用するしかなかった時代である。もっと近くで渡してもらえぬかと、他でもない吉平二十四才のとき浜松県へ何度も足を運び願い出た。その回数や四十回にも及ぶ。その労あってかやっとの思いで天竜川の対岸匂坂村への渡船が許可され実現した。 

(当時の天竜川)

Tunryu_20220929084001

 

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2022年9月18日 (日)

俳人十湖讃歌 第50回 郡長異彩(8)

 吉平は嘉永二年の生まれで、六歳で隣村羽鳥村の源長院において読書、習字を学び、十二歳に家へ戻り他の仏門によって教典漢籍を学んだ。
 十六歳にして、俳諧の小築庵春湖の門に入り詩文国学を修め日夜勉学に励んだ。俳諧は父母がいずれもその道の先駆者で号で呼ばれており吉平にもその素質が芽生えていた。
 どれをとっても理解力があり、しかも行動的で以後災害救済を通じて報徳法に心酔し民の心をひとつにし、農政家として民心を一身に集めていくことになった。
 明治五年二十四歳のとき、中善地の人々ともに三才報徳社を福山滝助の教えを守り実践し、「遠譲社中善地支社」として設立した。
 主旨は
一、天地の化育に人の賛す是れ三才なり。天地の間に生じたる財宝を私するは慎むこと、されば貧者を救ふべし。是の差出金を元怨金と称ふ。
二、三才報徳の元怨金拝借を元怨金以って家業精出し、家業立ち直りしは元怨金差し出し、即ち三才の恩沢に報するに誠心なること。
三、親親の者何ほど元怨金を差し出しこれあり候とも、子孫の者親の志に背き、心掛よろしからざるに於いては、相助不申間敷候。改心の時は格別のこと。
四、富者の貧者を恵むの道至誠なりとも、その者に益なく助からざる時は捨てるに同じとも先生(尊徳)に相伺い候、拠って衆評の上能々善人を選みて助くるが肝要のこと。右の条々永久堅度相守可申候
 この三才報徳社を組織した人々は、根本信義を良く守り成果を上げて、以来組織を二十五年間継続した。

Manabu


 

 

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2022年9月16日 (金)

俳人十湖讃歌 第49回 郡長異彩(7)

 聞いた者は続々と共鳴しその門に入っていった。
「一度聞いただけではその手法の手順が理解できぬ」
 吉平が十九歳の時深く心に期するところがあり、直接その学者自身に聞き、道を究めんと思い立ったのである。
「そうだ、相模へ行こう」
 人づてに知った相州小田原の報徳学者福山瀧助に就いてみようとその門をたたき一箇年その道に励んだ。
 帰ってきた時には徳川幕府の時代は終わり、明治新政府の下で新しき時代へと変化していた。
「いくら時代が変わったって天竜川の洪水が無くなったことにはならない」
 吉平は学んだ報徳仕法をいつかは役に立て、村の農民を救ってやりたいとの思いがいっそう強くなったいた。
 吉平二十歳の明治元年五月、またしても遠州中善地村の居村に豪雨が襲来し、堤防決壊して自宅も大部分を失った。
 村全体の被害は甚だしく、食べるものなく飢餓に瀕した。
 この時、吉平は学んできた報徳の精神を貫き、自家の貯蔵の米麦七十余俵と金を拠出し救済に率先した。
 以来ますます以誠心為本 以勤労為主 以分度為體  以推譲為用の尊徳の根本信義に接したことで、今後の自分の生きる道であることを確信していった。

(現在の小田原城)
Odawara01


 

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2022年9月13日 (火)

俳人十湖讃歌 第48回 郡長異彩(6)

 思えば吉平が「報徳」に目覚めたのは二十代であった。 
 一八四七年(弘化四年)安居院庄七とその弟浅田有信が隣村の下石田村に神谷與平次を訪ねてきたことがあった。
 この地域では水害や凶作が重なり、疲弊していた状態であった。
 庄七は、数日とどまり、救貧の道、復興の法を説き、また農事の近代的手法を紹介したところ村人は感激し、この地に下石田報徳社を創立した。
 吉平は彼らの行く先々で篤志家らが競ってその説を聞くことを風の便りで知っていたので、この地に来たらぜひ聞いてみたいと思っていた。
 だが安居院庄七は文久三年(一八六三年)に旅の途中七十五歳で客死した。
 その影響は遠州地方の村々で広まった報徳の組織をしだいに衰退へと向かわせていった。
 四年後、報徳社から新たに赴任してきたのが福山滝助五十一歳である。
 慶応三年(一八六七年)のときであった。
 彼らの説く報徳思想は至誠、勤労、分度、推譲の四綱領を柱としていずれも実践を通じて救貧と農政改革を目指したものであった。

(安居院庄七)
Agoinsyoichi

 

 

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