俳人十湖讃歌 第76回 郡長その後(7)
各地の報徳社員は、岡田らの建立案では納得しなかった。
地理が不便であってよろしくない。
しかも、報徳社員の幹部連中の一存で決めて出願したことに不満を表明した。
その先鋒が中善地の松島吉平こと松島十湖そのものだった。
今度は自らが7カ国の報徳社総代を集め協議をしたところ、明治25年3月今市と小田原の2箇所に神社を建立しようと決定した。
しかし、既に櫻町への創建が許可されているため、この指令を取り消す必要に迫られた。
明治25年8月15日十湖は報徳社員1万人の総代として内務省に取り消しを願い出た。
時の内務大臣は品川弥二郎辞任間直の接見であった。このとき併せて「報徳二宮神社創立願書」を提出した。
各地の総代とともに、あらためて岡田社長の筆頭名で出願し直ちに許可を得たのである。
さらに十湖は報徳教の二宮尊徳翁のために力を尽くし尊徳の遺跡を徒に捨ておくことを遺憾として、とうとう相州小田原、野州今市の2か所に二宮神社を建設せんと欲し前後6か年間奔走し、報徳社員1万人総代として内務省に出願し直ちに許可を得て同2個所に設立するに至った。
また34年には二宮翁の誕生地である相州栢山にその誕生碑を建設したのである。
そればかりか自らの郷に二尊堂なるものを設け尊徳と芭蕉を祀ったが、世の為人の為にするのだからと自己資金数百円を投じて自宅から程遠からざる貴平の地に移した。
(完)