9郡長その後

郡長非職として郷土に戻ってきた十湖の想いとは。

2022年12月27日 (火)

俳人十湖讃歌 第76回 郡長その後(7) 

 各地の報徳社員は、岡田らの建立案では納得しなかった。
 地理が不便であってよろしくない。
 しかも、報徳社員の幹部連中の一存で決めて出願したことに不満を表明した。
 その先鋒が中善地の松島吉平こと松島十湖そのものだった。
 今度は自らが7カ国の報徳社総代を集め協議をしたところ、明治25年3月今市と小田原の2箇所に神社を建立しようと決定した。
 しかし、既に櫻町への創建が許可されているため、この指令を取り消す必要に迫られた。
 明治25年8月15日十湖は報徳社員1万人の総代として内務省に取り消しを願い出た。
 時の内務大臣は品川弥二郎辞任間直の接見であった。このとき併せて「報徳二宮神社創立願書」を提出した。
 各地の総代とともに、あらためて岡田社長の筆頭名で出願し直ちに許可を得たのである。
 さらに十湖は報徳教の二宮尊徳翁のために力を尽くし尊徳の遺跡を徒に捨ておくことを遺憾として、とうとう相州小田原、野州今市の2か所に二宮神社を建設せんと欲し前後6か年間奔走し、報徳社員1万人総代として内務省に出願し直ちに許可を得て同2個所に設立するに至った。
 また34年には二宮翁の誕生地である相州栢山にその誕生碑を建設したのである。
 そればかりか自らの郷に二尊堂なるものを設け尊徳と芭蕉を祀ったが、世の為人の為にするのだからと自己資金数百円を投じて自宅から程遠からざる貴平の地に移した。
                 (完)
Sontokutanjyohi  

Ninomiyajinjya
(小田原市にある二宮神社)


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2022年12月25日 (日)

俳人十湖讃歌 第75回 郡長その後(6) 

 これより在職中の建議は天竜川治水の儀であった。
 地方税中最も多額の支出を要するものは治水費であり、その直轄する河川は天竜川、大井川、富士川、安部川の4大河川であった。
 年々堤防工事のため出費する予算は数万円にとどまらず中でも天竜川にあっては巨額でだった。
 当初予算で計上しても工事竣工後において不足を生ずるなど請負契約の手法に問題ありとして追及した。
 こうして十湖は各方面で活動しながらも片時も風流の道を忘れることはなかった。
 門人たちも各地から集まってくることから、心機一転これまでの年立庵の号を門弟吉川為龍に譲り自らは七十二峰庵を用いることにした。
 明治24年(1891)尊徳に従四位が追贈されたことをきっかけに、報徳社の人々の間に尊徳を祀る神社を創立しようという動きが高まり、十湖もその一人として運動を始めた。
 そうした中でもいち早く各地の総代、相模の国報徳社社長福住正兄、遠江の国報徳社社長岡田良一郎、駿河の国東報徳社社長牧田勇三の三氏は、遠駿相報徳社社員総代として野州芳賀郡物部村櫻町へ報徳二宮神社建立を実現させようと国に対し請願をした。同年10月のことである。
 運動の盛り上がりもあったせいか、すぐさま同年11月には許可が出た。
 これで1件落着と思いきや、ことがそう簡単には収まらなかった。
Imaiti Sontokutanjyohi


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2022年12月20日 (火)

俳人十湖讃歌 第74回 郡長その後(5) 

 今にも庭の桜が咲き出そうとしているところ、1人の男子が入門してきた。
 弱冠19歳の若者である。
 笠井新田の生まれで大木久市郎と名乗り、俳句は既に達者であった。
 十湖は清風居随処と俳号を与えた。のちの十湖の片腕ともいわれる七十二峰庵随處である。
 6月になり、いよいよ衆議員の選挙期となり日ごろの活動に自信をもって候補の公約を掲げ印を上げたのである。
 政治活動は衆目の共感を呼び、もはや当選を予期していたところ突然同区で立候補している某候補者から十湖のもとへ泣きがに入ってきた。
 既にある十湖の投票株を譲与して欲しいと懇請してきたのである。
 十湖の心情はこの場に及んで動揺した。
「わしは由来風流を嗜み仙境に悠遊するのいわゆる脱俗の人間だ」
 との思いが強く、推薦者が止めるのを聴かずに投票を譲ってしまったのである。
 あとで後悔して「野心を去り風流韻事に専ら努めよう」と改心した。

    世の中に箒当てばや寿々はらひ

 だが世の中はそうは甘くない。協力してきた衆はほおっておいてはくれない。
 次は静岡県会議員選挙がある。いったん政治活動の旗揚げをしたなら出馬は当然と推挙されたのである。
 選挙の結果は歴然としており、県議会の33番議員としてその名を高らしめたのである。
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2022年12月14日 (水)

俳人十湖讃歌 第73回 郡長その後(4) 

 同年は国会開会の前年で全国的に自由民権運動も熱を帯び、十湖は政界に身を投じ活動しようと野心を燃えたぎらせていた。

    水仙や雪の中より花ひとつ

 ところが翌23年1月になり期するところがあって遠陽大同倶楽部を脱党して東京大同倶楽部加盟し、政界の荒波に身を置き政談演説に東奔西走した。
 地元へ戻ってみると政治どころの騒ぎではない。
 被災者たちが困窮している実態を目の当たりにして十湖は松島授三郎や渡瀬友三郎、平井重蔵らと共に有志者より災害寄付を募り昨年の天竜川堤防の決壊で被害を被った難民を支援した。
 同月18日政治活動中集会条例違反で罰金10円を被るはめになり、十湖の活動の一部が政治活動とみなされたこともあり、いかに様々なところで活動が活発であったことを物語っている。
 政治活動の傍ら、十湖は追善句会を開催など、再び多忙な日々を暮らす。43歳になっていた。

    春寒し汲んで手向ける水のいろ
    諸人を集めて今日の花供養

 各地に句碑を建立し追善句集を発行しては俳句の普及を目指していた。
Daidoukurabu


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2022年12月 9日 (金)

俳人十湖讃歌 第72回 郡長その後(3) 

 明治22年3月、十湖の報徳法の布教活動に定評あり、各地で布教演説を広げた。
 その効あってか県外の村の騒動にも立ち会い、全村民を集め村の悪弊を説諭し和解させたこともあった。
 もしも金銭が関わっていることがあれば十湖の慈善により解決を図った。
 4月に入り、とうとう十湖も「鬼の霍乱」となり体調を崩し活動は控えめとなった。
 十湖の病気は2ヶ月にも及び活動に支障を生じ新聞に十湖名で「4月以来病気につき報徳会農談会及び発句点検等快気迄謝絶」との広告を出す始末であった。
 新聞広告のせいもあってか2か月ほど静かに自宅療養を重ねる。
 庭のアジサイに見とれていたら、専ら朝顔の蔓が伸び毎朝新しい花が咲き乱れる。
 その元気をもらってか8月初め新聞に「病気全快及び郡長非職も満期」との広告を載せ、自由自在となったことを明らかにした。
 まずはやれやれと徐々に活動を復活させはじめたころ、梅雨はあけたのに雨が続く。
 その結果9月11日天竜川に架橋した豊田橋が洪水により流出した。
 豊田橋は十湖らが発起人となって苦労して作った橋である。十湖は憔悴しきってしまった。
 12月暮れも押し迫ったころ板垣退助の招きに応じて大坂で開催の旧友大懇親会に出席する。
 十湖にとってこの会はまさに元気を与えてくれたようだ。
 大阪の桃山なる産湯楼に全国から500余人が参加した。
 久し振りに十湖は俳句を詠んだ。

   桃山や小春の今日の人を花

 この会は大阪中の島の洗心館での開催となる大同団結の臨時総会へと引き継がれた。
 これにも出席し、浜松へ帰るや否や沢田寧らと相談し遠陽大同倶楽部を結成し、浜松報徳館において結党式を挙行した。
 この時すでに会員600人余名であった。党員600余名中十湖が紹介によって入党するもの300余名にして十湖の勢力極めて旺盛であった。
Houtokusya


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2022年12月 6日 (火)

俳人十湖讃歌 第71回 郡長その後(2) 

 郡長としての資質を生かし、明治19年12月、自宅で農事を奨励し、地域の村道、橋など、どこでも車馬が自由に行き来できるようにした。
 用水路も同じく改良してきた。
 具体的には橋梁87か所及び豊田橋より見附に至る道路並びに橋梁10か所を自費にて修繕し、天竜川堤防に松苗1万本を植え付けた。
 年が明けて三遠農学社主幹を辞し顧問となり、未だ社則の不備な点を改定した。
 その間、十湖の非職における地域への貢献は枚挙にいとまなく、宇利峠の道路改修、笠井村の火事罹災者救助の寄付、原川村から匂坂中村への新道工事に寄付支援をした。
 十湖のこうした行動は三遠農学社への期待を高め社員の数も日毎に増加し2500余名になったと地方紙は報じていた。
 翌21年4月東海道線舞阪鉄橋が開通、9月には浜松停車場接続道路が開通し、この日をもって国鉄浜松駅が開業した。
 ただ天竜川鉄橋はできていないため西行きのみ開業となる。
 十湖にとって活動範囲の広がる1歩でもあった。
 なお、汽車は上り下りとも1日3本、浜松名古屋間の料金は中等1円70銭、下等76銭であった。
 翌年の2月には東京静岡間が開通した。
 周囲の環境が改善されるなか十湖の公的活動以外でも俳諧の道は忘れず同好の士を集め盛んとなった。
 郡長時代から生まれ故郷の中善地における撫松庵には地域の門弟らが集まり俳句に励んでいる。
 郡長以後となってからは一段と入門者が多くなり、庵を運営していくのは地元の出身者が中心となっていた。
 十湖の活動範囲が広がる一方、右腕となって支えてくれる人物の出現を熱望している時期でもあった。

Jikokuhyot13


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2022年12月 1日 (木)

俳人十湖讃歌 第70回 郡長その後(1) 

 早朝、撫松庵の庭の里芋の葉に朝露が溜まり毀れかかっている。
 それをみた十湖は夏のすがすがしさを感じていた。
 撫松庵では弟子たちが寝起きしているものあれば、俳句の修業のためやってきて門弟どうし自己研鑽をしている。
 たまには地方から来る門人もあり常に話し声が絶えない。
 ある日、弟子たちが未だ起きている様子はないので、十湖はひとりで近辺の散歩に歩み出そうとしていた。
 公職をやめたからといって決して高齢ではない。
 未だ40歳に満たない働き盛りである。
 これからは自らが決めた朝の日課を始めようとしている。

    日暮らしも賑やかしとまできく日かな

 この日も朝食後は地域周りの挨拶が目白押しである。
 俳句を詠めるのは早朝が最も適していると思った。
 朝の空気をすーと吸い込み、たちどころに天竜川の支流にあたる大川方面へ足が向いた。
 近所の百姓たちが十湖を見かけると、あいさつを交わしたあとには困りごとを愚痴ってくる。
「相変わらず村は困窮しているな。何とか百姓が働きしやすいように要求を解決してやらんと」
 十湖はこれまでの経験から皆の声を聴くことが最も大切であると痛感していた。
 母の健康上の理由により引佐麁玉郡長を辞任して、悠々自適の暮らしを故郷中善地の地で過ごしているかと思えば、むしろ忙しい日々となっていた。
Jyucotei
(挿絵は「現代によみがえる報徳の絆」参考)

 


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