11昆虫翁

稲作が全国的に害虫被害を受け、その対策に十湖乗り出すと昆虫翁を知る・・・

2023年7月22日 (土)

俳人十湖讃歌 第111回 昆虫翁(20) 完

 豊西小学校の会場は、四百人の聴衆が集まりはち切れんばかりである。
 しかもこれだけの聴衆が集まったのは、今福校長が近傍の町村の学校職員をも勧誘したことによるばかりか、主催する十湖の信用の厚いところがそうさせたのである。
 定刻になり開会の辞を豊西小学校の今福校長が口にすると、それまでざわめいていた館内は静まり返った。
 講話は粛々と進み、名和所長の紹介は十湖が行った。
 それに対し名和はこれまでの経過を得々と語り始めた。
「私がこの度御地へ参りましたのは、我が日本の偉人たる松島十湖先生にお目にかかって、お礼を申し上げるために参りましたのでございます。
 それは何事のお礼かと申すに、十湖先生が私の事業をお助け下されたことが多大でありますから、それに対し厚くお礼を述べなくてはならぬのでございます。
 十湖先生は故二宮翁の遺志を継がれて大いに人心を改良せられました。その徳によりまして御地はもちろんのこと、他地方におきましてもこの偉人の感化を受けまして、農業も進歩し、村政も整頓し従って私の畢生の事業にしておる害虫駆除にも良き成績を上げた村が多くあります。
 その結果私のところに昆虫標本室ができました。しかし、貴重なる国家の宝物である標本を永久保存すべき建物がなく憂慮していたところ、十湖先生の誠心によって害虫駆除の効果が現れてから私の集めた標本にも世人の注目を浴び、明治三十九年大阪朝日新聞社の主導により、同情者の譲金をもって煉瓦造りの標本室一棟新築し、四十年の夏落成式を挙げて研究所へ寄付してくれました。これに対し私のよろこびは、感極まって泣くばかりでありました。
 これらの事をもって十湖先生が直接、あるいは間接に私の事業をお助けくださいましたということが明らかにお分かりになりましょう。
 本年三月には十湖先生の元へお礼に参ろう、又、渥美郡野田村なる三遠農学社東三支社の大会に出席いたそうと存じていました。
 この大会に出席すれば十湖先生に会うことができるだろうと楽しみにしておりましたところが、三月十五日東三支社の大会当日は、偶然にも私にとりまして未曾有の光栄たる出来事が生じまして、野田村へ参ることができませんでした。
 その光栄ある出来事とは、同日に於いて日本赤十字社総裁閑院宮殿下には、岐阜支部の役員並びに特別社員総会に出席の折、我が研究所にも御成り遊ばされることが確定になりましたのでございます。
 今回気賀町で開かれる三遠農学社大会にはぜひ参ろうと決心しましたが、気賀町へ参る前に本郡知波田及び引佐郡西浜名村の二ヵ所にて講話をなすこととなり、さらに気賀では引佐農学校で講話をいたし、やっと十湖先生の拝顔を得てお礼を申し上げた次第でございます」
 名和所長の長い冒頭の挨拶だったが、十湖はこれでこれまでの経緯、講演の依頼がたびたび断られた理由を知ることになった。田中には少しつらく当たったかなと思ったが、内心ほくそ笑んでいた。
 午後六時閉会し、すぐに笠井町小野田楼に於いて有志懇親会を開いた。
 席上それぞれ出席者の演説があったが、十湖は静かに聴講していた。
 こんなことは珍しかった。 
 旅館山形楼に戻った名和所長一行は、明日は必ず帰宅すると決心した。
 このとき既に他より講話を申し込むものあったが、遺憾ながら応諾することができぬと断っていた。遠州滞在の日を一日経過していたのだった。
 次の日、十湖らに送られて駅へ向かう名和所長らを乗せた馬車は、初夏の風を切り、颯爽と遠州を後にしていった。

Kinensyasin_2
 (完)

 この稿を起稿するにあたり、名和昆虫博物館館長名和哲夫様より資料のご提供をいただきました。この場を借りましてお礼申し上げます。

 

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2023年7月16日 (日)

俳人十湖讃歌 第110回 昆虫翁(19) 

「この度は一行には随分おせわになりました。まさかこんな田舎まで来てくれるとは思ってもみませんでした」
 十湖は立ったまま名和らに言葉を返した。ここまでは社交辞令である。
「一緒に来られた方は、名を何といったかな」
「はあ、田中です。良く十湖様からご案内をいただきましたが、名和の都合がつかず講話依頼をお断りさせていただいたものです」
 田中は静かに応えた。
「君か。わしのたっての依頼にも、いつも話をぶち壊したのは」
「そんな、壊すなんてしていません」
「おかげでそのたびに予定を変更し、報徳社の仲間たちにも迷惑をかけた」
「申し訳ありません。遠くにいますのでこちらの実情までは察しがつきません」
「たとえ相手の様子が分からなくても、紋切り型で門前払いの応え方はよくない。次の案を示せばいいではなかったか」
「十湖様、こちらも全国からの依頼で毎日忙しいのです。一地方の事だけのお世話をしているわけではないのです」
「一地方だってそれなりに事情がある。相手の身になれば分かるはずだ」
「それに所長も忙しく、いずれにしてもできないものはできないのです」
 十湖は田中の返答にいらいらし、徐々に怒りが高まってきた。
 大柄な田中だが、このやり取りで田中が少しずつ小さくなっていくように見えた。
 だが十湖はそれでは治まらない、随行の者にも厳しい言葉が待っていた。
「いいか、名和先生の偉業は世人の認知するところなるが、その高徳に至っては平素側に侍する者の想い及ばざるものがある。君たちは先生に誠意をもって接し、その高徳を感じて補佐すべきだ。わしはそういう人物になって欲しいと君等に期待して云うんだ」
 田中は自分の行動がたしなめられていると思い
 ――心配していたとおりだった。とうとう爆発して説教されてしまった
 この先が思いやられる。
 だがこれだけでは終わらなかった。十湖は彼らに聖徳太子の肖像と、二宮尊徳の遺墨を見せ智徳の事をとくとくと説教し始めた。
 今日の講話の開会は三時だというのに、その時が迫っていた。

 

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2023年7月15日 (土)

俳人十湖讃歌 第109回 昆虫翁(18) 

 先に来た手紙では笠井町の旅館山形屋にて待つとあったが、これまでの恩を思うと一刻も早く十湖の元に行かねばとの気持ちが先行した。
 だが、昨日の講演で引佐農学校長から講話を懇願され、今日午前に行く約束をしてしまった。これも約束を破るわけにはいかない。
 かといって十湖との時間も守らなければいけない。
 時は既に過ぎており、厳格な十湖がいつまでも待ち合わせの場所にいるはずがない。
 引佐農学校のある金指町には豊西方面への馬車の便はない。
 しかたなく随行員の田中等三人は、馬車で一旦浜松町を廻り笠井を目指した。
 所長は小さな一人乗りの人力車である腕車を走らせ、金指で講演したのちは笠井へと向かった。
「宗匠は待って居てくれるだろうか」
 名和は一抹の不安を感じた。
 正午過ぎにはどちらも同時に山形屋へ着いた。
 初めてやって来た笠井の町は、気賀とは比べ物にならないくらい活気を帯びていた。
 待ち合わせの場所山形屋は笠井街道のほぼ中心にあり、車夫はすぐにもわかった。
「十湖翁はいらっしゃいますか。名和です」
 恐る恐る玄関の戸を開けて中をのぞきながら声を掛けた。
 奥から主と思われる色白の女が出てきた。
「名和先生の到着を今か今かと待っておりましたけど、先ほど自宅へ戻りました」
 女は申し訳なさそうに答えた。
「十湖翁のお屋敷はどちらになりますか」 
「そうですね。これより東へ歩いても五、六分の距離です。川の堤が見えたら右の方に見える垣根囲いの大きな屋敷です」
 一行は山形屋の主に云われたとおり、歩いて程なく邸へ辿り着いた。
「よく来てくれましたなあ。ここまで来るには大変でしたでしょう」
 迎え入れた十湖は、怒っているどころか大いに喜んだ。
 名和と田中が十湖にあいさつした。
 以前田中は、十湖から何度か催促の電話を受けたことを思い出した。
 ――ここは丁重に挨拶しておかないと、また怒鳴られて説教されてしまうなあ
 声に出さずとも自分自身に言い聞かせた。

Kannonmae
(昭和初期の笠井観音前の賑わい。写真の奥付近が山形屋旅館)

 

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2023年7月12日 (水)

俳人十湖讃歌 第108回 昆虫翁(17) 

 翌十二日は快晴。名和等は知波田尋常小学校で講話し、その後、猪鼻湖を経由し西浜名村三ケ日の港に安着した。
 ここでの歓迎振りも言うまでもなく、講演終了後去りがたかった。
 十三日、快晴。名和は三ケ日の旅館千鳥屋に泊っていた。
 午前七時には馬車に乗り、気賀町で開催される三遠農学社春季大会に向かっていた。
 道の右方に湖水を眺め、左方に山を見て一時間余で会場へ達した。
 聴衆は老農及び青年等およそ四百名、皆社員にして顧問十湖とともに力を尽くして組織された人々であった。
 社員は各自自弁をもって公益を図り、誠心を持って事を執ると報徳の教えのとおり、この日の聴衆としても立派な態度であった。
 名和所長等一行はその行動習慣を垣間見て、世に稀なるところだと感嘆した。
 十四日晴れ。大会会場に泊った一行は三遠農学社の社員の習慣を再び目の当たりにした。
 つとに起きて二宮尊徳先生の影前に額づき、報徳訓を唱えている。社員等が誠心を持って事にあたっていることをあらためて知ったのだ。
 この日、名和所長あてに十湖から電報が届く。
 ――ハヤオイデヲマツ マツシマジツコ
 と打電されていた。

 

Yomoyama03
(写真上は当時の街道で気賀へ向かう。下の写真は最近の同地区)

 

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2023年7月 9日 (日)

俳人十湖讃歌 第107回 昆虫翁(16) 

 山本邸の大広間には既に聴衆二百余名、田中周平と名和所長が講話をした。
 本日の費用はすべて山本の私財によるものであった。
「本日は遠いところを来ていただき、すぐにも講話をしていただいて御礼申し上げます」
 山本は講話を終えて戻ってきた名和ら一行に礼を云った。
「なかなか盛況でしたね。気持ちよく話をすることができました」
「そうですか、それは良かった。ところで、十湖宗匠より手紙で事伝がありました」
 山本は、にこやかに笑いながら名和らに云った。
「私にですか。それはどんな用件でしょうか」
 名和の顔が一瞬曇ったようにみえたが、すぐに聞き返した。
 十湖からの言伝だとはいったい何事か。
 山本は、名和が既に機嫌を損ねてしまったのかと不安になった。
「大したことではありません。講話が済み次第自分のところに寄ってほしい、ついては来れる日を教えてくれとのことでした」
「今回こちらへ来た大きな目的のひとつは十湖宗匠にあって御礼を述べることです。何とか都合をつけたい。だが、またしても新たな講演箇所が増えてしまいました」
「それはうれしい限りではないですか。ぜひ実現させてやってください。遅れることあれば私が責任をとって謝りますから」
「いやいいですよ。ご迷惑をかけたくありません。十四日の午後には何とかなるかも知れません」
「わかりました。そのように伝えておきます」

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(明治34年頃の講演会記念写真。2列目中央 名和 靖)

 

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2023年7月 2日 (日)

俳人十湖讃歌 第106回 昆虫翁(15) 

  浜名湖の湖面は穏やかで、岸辺の桜が舞い散って船べりに漂ってくる。
 田中は余分なことは考えず、春の風情を満喫しようと自分に言い聞かせていた。
 一ヶ月前、十湖から研究所に手紙があり三遠農学社の大会への出席を頼んできた。
 再三の依頼にもかかわらず、事務方の田中は「所長は多忙のため地方までとても出向いて行けない」との断りの返事をしていた。
 十湖から出張講話を願い出ても悉く断ってしまっていた。
 だが、このくらいのことで怯む十湖ではない。
 所長あてに「県内に来られる時には是非自宅へも立ち寄って欲しい」 旨の手紙を送る。田中は返事を無視しつづけた。
 一方、四月に入って知波田の農学社山本十四郎から十湖の元に手紙が届く。吉報である。
 近く名和所長が本県の大会に出席するので、自分が接待をすると伝えてきた。
 十湖は急ぎ返事を出した。
 ――粗相のないように丁重に迎えてくれ。ついては自分のところにも立ち寄ってくれるよう伝えて欲しい。
 そんな十湖の心配をよそに、山本の接待は見事であった。
 知波田までの船は四十人以上が乗れるよう小船二杯を並べ、ひとつの屋根を張り安定を保った。
 初日の講話会場は自分の邸を当てていた。
 やがて、船は正午には知波田村に着岸した。
 所長以下八人には昼食が用意されていた。
  随行の田中は所長が箸を持つよりも早く、飯が口に入っていた。
 所長が料理を眺めてから食べ始める頃、あまりの美味さに誰が調理したのかと、誰かれと言わず声が上がった。 
「女房の舎弟が作りました。舎弟は御油の駅前で暖簾を出している玉寿司の息子でして」
 山本は自慢そうに皆の顔を眺めながら応えた。
 玉寿司といえば街道では名が通っており、一同は和気藹々とした雰囲気の中講話会場へと向かった。

 

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2023年7月 1日 (土)

俳人十湖讃歌 第105回 昆虫翁(14) 

  田中は研究員として名和の部下にあたり、研究所の事務も担当し研究熱心な男で名和は信頼していた。
 一つだけ難点を云えば学者肌のところがあり融通が利かないところである。
 この性格が十湖とのやり取りを難しくしてきていた。
 これまで何度か三遠農学社から出張講話の依頼があったが、忙しさにかまけて断ってきた経緯があった。
 遠州三州の報徳運動は駿州以東にも尾州以西にも影響を及ぼし、三遠農学社の社員の誠心を発揮させ各地で活動している。
 要するに三遠農学社の組織は既に自力で行動ができたのである。
 いまさら出張講話に多忙な所長まで出向いていく必要があるのかと思った。
 今回浜名郡方面だけ特別に出向いていくとなると、他県から叱責される恐れがある。  
 それでも所長自らが行くとなれば日程を確認しなければならない。
 田中は程なく往復五日間の旅程を立てたが、気が進まなかった。
 行こうと思い立ってからはや一ヶ月が経った四月十一日、田中は所長とともに午前六時五十五分岐阜駅発に乗車、十時八分豊橋駅に着く。ここで随行の者が加わった。
 全農協会長石田利三郎と同氏の友人内藤末吉ら含め四名である。
 田中は今回の出張はいつもとは様子が違うと感じていた。
 四十分程度で鷲津駅に着き全員が下車すると、改札の外に見える人だかりは何か。
 改札を出ると三十人以上の出迎えを受けた。その中の一人が突然駅構内に響くような大きな声で叫んだ。
「名和先生御一行様の歓迎に参りました」
 名和所長は恥ずかしそうに俯いていたが、歓迎者の中から知波田の篤志家である山本十四郎が進み出て顔を出した。
「皆さんどうもお迎えありがとうございます」
 名和は風格のある山本に対して精一杯の謝辞であった。
「何のなんの遠いところをご苦労様です。ここからは船で参ります。この船は今日のために特注しで作ったものでして、安心して乗って頂ければありがたい」
 隣にいた豊田が名和一行に乗船を促した。

Hama14_2

 足下に注意しながら乗船した田中は、それまでの不安を払拭し所長に云った。
「嬉しいですねこんな歓迎は。でもこの船は、いったい誰が金を出して手を廻してくれたんでしょうね」
 船には出迎え者を含め四十余名が乗船した。田中はこの様子を目の当たりにして、今回の出張の主役はいったい誰なのかわからなくなってしまうと思った。

 

 

 

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2023年6月30日 (金)

俳人十湖讃歌 第104回 昆虫翁(13)

 一ヵ月後、十湖の元に地元の画人等から寄付の目録が届けられた。
一小画仙紙半切書 百枚 司馬老泉
一同       同  山下青崖
一同       同  松島十湖
一同       同  大木随処
 を含め二十人の書き物だった。ほかに一人二十円の現金があった。
 明治三十九年十二月名和昆虫研究所発行「昆虫世界第百十二号」に特別広告が掲載された。
「大阪朝日新聞社の同情により国宝とも称すべき特別昆虫標本を永久にしかも完全に保存し得べき煉瓦石造の標本室は悠々不日建築に着手し明年五月を期し落成の筈なり尚世の趨勢は第二期の拡張を促すや切なり願わくば同情者諸君幸に相当の期間を与えて一大活躍をなさしめられんことを切望す 岐阜市公園内名和昆虫研究所」
 さすがに大新聞のすることだった。
 紙上で記事が掲載されたとたん約五千円の寄付が集まった。すかさず工事に取り掛かり、翌四十年六月には立派な標本館が研究所の前面に姿を現した。

Kinenkoncyukan

(写真は名和昆虫博物館ホームページより。現在は記念昆虫館として岐阜市重要文化財)

 同紙の隣のページには下半分を割いて
 ――名和昆虫研究所維持拡張金品寄付者芳名 
   左に掲ぐるは静岡県松島十湖宗匠の取扱にかかるものなり――
 小画仙半切書百枚司馬老泉殿」ほか二十名の氏名と寄付物品が掲載されていた。
 さらに次ページには「昆虫俳句懸賞大募集 選者七十二峰庵十湖宗匠 課題 昆虫」とあり以後「昆虫世界」機関誌の一部を担うことになった。
 まさしく名和所長にとって十湖の協力は何にも増してありがたかったのだろう。
「行って会って御礼をいわねばならぬ」
 研究所の桜の蕾がしだいに膨らむのを見ながら、日本のファーブルとまで言われた昆虫翁名和靖がふとつぶやいた。
「今年はどんなことがあっても三遠農学社大会に出席する。田中君もついてきたまえ」
「えっ、私もですか。わかりました。出席に同行させていただきます」
 とはいったものの、名和からの指示に田中周平は少しばかり気が進まなかった。
 明治四十二年三月、まだ春浅き岐阜の研究所でのふたりの会話である。

 

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2023年6月14日 (水)

俳人十湖讃歌 第103回 昆虫翁(12) 

 一方、浜名郡中善地の十湖は六月で浜名郡会議員三期目を終えた。
 これで一切の公職から離れ報徳の教えを広めながら、俳諧に専念しようとしていた。
 早朝いつものとおり新聞を広げ、自分に関係する記事は出ていないかとパラパラとめくり始めた。
 ――名和昆虫研究所・・・
という見出しに眼が引かれた。読み進むうち一番弟子の随処を呼んだ。
「何か御用ですか」
 たまたま句会の準備で早くから来庵していた随処が何事かという顔をして応えた。
「ここに名和所長のことが書かれている。ちょっと読んでみよ」
 十湖は随処に新聞を開いて渡した。

Zuisyo05
(大木随處)

「昆虫研究所が建替えをするのですか。要するに建設資金の寄付募集のことですね」
「そうだ。これまでの付き合いで名和のところに寄付をしてやりたいが、何とか金は工面できるか」
 ――いつものようにお金の無心か
 随処は呟きながら朝から嫌な思いがした。家計の現状をいまこそ十湖に言わねばならない。
「お金はありませんよ。こちらが貰いたいくらいです。どうしてもと言われるなら、われわれには同志がいます。この人たちに協力を申し出れば、なんとか調達できるはずですが」
 まさにそのとおりである。十湖は今俳諧で身を立てているようなものだ。その取り巻きには画人もいれば書家もいる。
「そうだな。一回りして一人半切百枚でどうだ。売れば一枚二十銭ぐらいにはなる。十人で二百円分だ」
 十湖は頭で計算し自ら納得して随処に頼んだ。
 十湖は金が入用な時はこの手をよく使う。旅先で持ち金がなくなってくると自ら書をしたためて金に換えてもらうことがあった。
「それでは皆で手分けしてお願いに行ってきます。理由は名和昆虫研究所の建て替えの寄付だということでいいですね」
 随処は念を押して言い放ち、仲間を呼びに廊下を走った。

 

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2023年6月11日 (日)

俳人十湖讃歌 第102回 昆虫翁(11)

 ウンカ騒動から九年後の明治三十九年五月、日本の鉄道が五千マイルに達したとして名古屋で盛大な記念祝賀会が催された。
 このとき全国の報道記者の取材を受けた隣県の岐阜は、これを機に取材陣を長良川鵜飼に招待して市の発展ぶりを紹介した。
 同月十二日、招待者の中の一人大阪朝日新聞の記者土屋大夢が突然名和昆虫研究所を訪れ、名和所長の説明を受けていた。
 土屋は昆虫標本陳列棚を一巡し、名和に云った。
「数々の標本は本当にすばらしい。所長の所蔵品というだけでなく日本の宝ですね」
 土屋は所長の顔をじっと見て称賛した。
「お褒めいただきありがとうございます」
 名和は自分よりも若い記者のことばに恐縮した。
「ですが、この陳列棚では地震や火災が発生したら一溜りもありませんね」
 土屋の口調がきつかった。
「おっしゃるとおりです。研究所の経営も私個人に関わることで、残念ながら資金も乏しくとても建て替えはできません」
 所長の名和は大きなため息をつきながら応えた。
 研究所は明治二十九年に岐阜市内に設立したもので、市の意向により八年後岐阜公園内に移転したものだった。標本陳列棚は当時のままであった。
 土屋は帰社後、ある想いに達していた。
 三年前、フランスのパリで万国博覧会が開催された折、土屋はその取材で現地を訪れていたが、日本から出品の昆虫標本が、どれも名和の製作で展示されていたのを思いだしていた。
 今、その貴重な名和の標本が、粗末な建物の中で、しかも災害には無防備な場所に陳列されていてもいいのか。
 土屋はペンを執って大阪朝日新聞紙上でこのことを訴えた。

 

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