俳人十湖讃歌 第147回 息子の戦死(6)
十湖にとって近藤登之助こと次男藤吉の死は、あまりにも衝撃的であった。
口では誉めて見せても、内心では生きていて欲しかったというのが本心であった。
人前では涙は見せずとも、夜になると悲しみが押し寄せてくるのであった。
明治三十七年八月三十一日十湖五十六歳になっていた。その次男藤吉は二十七歳という若さの戦死であった。
地元の浜松新聞は登之助葬儀前の状況を記事として掲載するとともに、同日鈴木藤三郎氏と十湖氏と題して次のように報じていた。
――東京深川小名木川の日本精製糖会社社長にして衆議院議員なる鈴木藤三郎氏と松島十湖氏途は眤近の交わりある事なるが今度近藤曹長の戦死を聞きて先ず取敢えず香典として金五円を送付し尚葬儀の事については金一円以上と十湖との関係上巨額なる寄付を為す
いうまでもなく十湖と鈴木藤三郎との関係は盟友の何物でもない。十湖の悲しみに対し藤三郎ができる最大の弔意を示したものだったろう。十湖にとってどんなに慰められたことか。
続けて同新聞は八日の近藤曹長葬儀の光景として
――地域の有力者ほか一般会葬者一万人、葬儀会場として十湖宅、菩提寺を当て何れにも大アーチを作り衛国門の額を掲げた。楽隊が「哀の極」を吹奏し笠井町内を出て葬儀会場へと向かう。
葬儀会場では四時庵友月の発句や門人等の弔を集めて句集「友月集」を作成し配付した。
のちに登之助は戦功により勲七等に叙ぜられ功七級金鵄勲章を賜った。
魂祭り家門の光ります日かな
十湖は次男藤吉こと近藤登之助の名誉のために、後世に残そうとそれを祝って詠んだ。だが、どうしても胸にぽっかり空いた穴は埋まることなく、日々が空しく過ぎていった。
翌年、十湖は自らの俳号「七十二峰庵」を弟子の随處に与え、自らを「大有庵」と号し、けじめとした。
(終)