15息子の戦死

時代は戦争まっただ中、悲嘆にくれる十湖。どう乗り越えるのか。

2024年2月 7日 (水)

俳人十湖讃歌 第147回 息子の戦死(6)

 十湖にとって近藤登之助こと次男藤吉の死は、あまりにも衝撃的であった。
 口では誉めて見せても、内心では生きていて欲しかったというのが本心であった。 
 人前では涙は見せずとも、夜になると悲しみが押し寄せてくるのであった。
 明治三十七年八月三十一日十湖五十六歳になっていた。その次男藤吉は二十七歳という若さの戦死であった。
 地元の浜松新聞は登之助葬儀前の状況を記事として掲載するとともに、同日鈴木藤三郎氏と十湖氏と題して次のように報じていた。
 ――東京深川小名木川の日本精製糖会社社長にして衆議院議員なる鈴木藤三郎氏と松島十湖氏途は眤近の交わりある事なるが今度近藤曹長の戦死を聞きて先ず取敢えず香典として金五円を送付し尚葬儀の事については金一円以上と十湖との関係上巨額なる寄付を為す

 いうまでもなく十湖と鈴木藤三郎との関係は盟友の何物でもない。十湖の悲しみに対し藤三郎ができる最大の弔意を示したものだったろう。十湖にとってどんなに慰められたことか。
 続けて同新聞は八日の近藤曹長葬儀の光景として
――地域の有力者ほか一般会葬者一万人、葬儀会場として十湖宅、菩提寺を当て何れにも大アーチを作り衛国門の額を掲げた。楽隊が「哀の極」を吹奏し笠井町内を出て葬儀会場へと向かう。
 葬儀会場では四時庵友月の発句や門人等の弔を集めて句集「友月集」を作成し配付した。
 のちに登之助は戦功により勲七等に叙ぜられ功七級金鵄勲章を賜った。
 
   魂祭り家門の光ります日かな

 十湖は次男藤吉こと近藤登之助の名誉のために、後世に残そうとそれを祝って詠んだ。だが、どうしても胸にぽっかり空いた穴は埋まることなく、日々が空しく過ぎていった。
 翌年、十湖は自らの俳号「七十二峰庵」を弟子の随處に与え、自らを「大有庵」と号し、けじめとした。
(終)


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2024年2月 3日 (土)

俳人十湖讃歌 第146回 息子の戦死(5)

 九月十七日夜、十湖は同吟会主催の連歌会に出席した。
「宗匠久しぶりだ。ますます元気なようだな」
 掛川在住の宗匠が十湖の座に近寄ってきた。かつて農学社の活動でも顔見知りの男である。
「ところで、宗匠の甥の八木吉平が戦死したよ。知ってたか」
「いや知らん。いつ亡くなった」
「八月三十一日遼陽で戦死したと聞いた」 
 十湖はたしか籐吉も同じ隊にいたはずだと思った。だが死んだのは籐吉ではなくて胸を撫で下ろした。
 三日後、連歌会で同席した掛川の宗匠から十湖のもとに急な連絡が入った。
「それでな、お前の息子藤吉である近藤登之助が首山堡塁付近でどうも亡くなったらしいと言うんだ。同じ三十一日に大隊長の身代わりとなってね」
「そんなばかな。聞いてはいない。何ら誰からも連絡がないしな」
 十湖が信じられないという顔をして睨み付けた。不安は隠せなかった。
 そのことを裏付けるように翌二十一日、気賀町役場から「出征者が自宅へ送った手紙に二中隊近藤軍曹殿には名誉の戦死をせられたり」とあったとの知らせがあった。
 同日、役場より公報が入る。もはやうそではない。戦死は事実であった。

     よく死んだ出かしおったと魂迎ひ
          我が家にも戦死者ありてあきのくれ
     見上るやくれてのあとの秋の空

Kuhi

 

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2024年1月30日 (火)

俳人十湖讃歌 第145回 息子の戦死(4)

   それから程なくして、十湖は一風変った行事を思い付いた。
 定例句会の準備のために朝から庵に来ていた弟子の随処を、大きな声で呼びつけた。
「今日の句会は敵国降伏祈念祭とする。各人に烏帽子、垂直の装束で来るように伝えてくれ」
「え、今からですか」 
 随処は怪訝な顔付きで聞き返した。十湖は一度言い放したら云うことを聞かない。
 今回は息子の生死を左右しそうな戦況を黙って見過ごすわけにはいかなかったのだろう。
 随處は十湖の性格を知っており、唐突な指図はいつものことだと自分の怒りを抑えていた。
「そうだ。正午までには時間がある。明日二十日にかけてやるのだから、まあ揃わなければ仕方が無い」
「わかりました。出席予定者のところへ弟子と一走り回ってみます」
 そういうと随處は弟子を一人連れて、下駄を鳴らして外へ出て行った。 
 会の運営は十湖が自ら考えた。
 会場の笠井街道沿いの旅館山形楼には神前を用意した。供え物には饅頭に鰹節、そして栗を並べた。
 供え物にしては変った取り合わせだが、十湖にとっては大きな意味のあることだった。
 まず、戦勝にちなみ饅頭、これは満州の代わり。鰹節これは勝男節。栗は同じく勝栗のたとえとした。
 句会の各章には、いずれも軍歌を仕込んだ百韻歌仙を興行した。
 誠に奇妙な句会である。これを新聞屋が逃すはずがない、当然のこと翌日の新聞たねとなった。
 十湖の狙いは見事に当たったのである。
 五月、バルチック艦隊の全滅で各地では戦勝提灯行列が行われた。連日の新聞はこの記事で埋まっていた。
 浜松駅周辺では笹竹に紅提灯を付け、頭上に振りかざして戦勝を祝う市民らが集まっていた。
 その光景を十湖は句に詠んだ。
  
     提灯にてらす世界や夏祭

 このころ日本軍が九連城を占領すると、浜松地方の学校では祝賀行事が組まれ、学生も参加した。
 戦地の藤吉は八月十八日からは遼陽に向かって前進し、首山堡塁に対して攻撃を開始した。
 日本軍の死傷者二万三千余人をだしたが、ロシア軍が退却を開始。九月四日日本軍が遼陽を占領した。
 十湖の元でも戦勝に沸いていた。
「遼陽が陥落したか。遼陽占領祝賀祭だ。早速連歌会の開催支度だ」
 十湖は機嫌良く囃し立てていた。感情の高ぶりで句は考えずとも自然に口から吟じていた。

     蜻蛉や百万の蚊をとり尽くす

 この最中の八月三十一日、登之助がロシア軍との大激戦を交え、敵弾に当たり若い命を落としたことを知らない。九月四日になっても十湖のもとには 訃報は届いていなかった。
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2024年1月20日 (土)

俳人十湖讃歌 第144回 息子の戦死(3) 

「手紙の最後に俳句が添えられているぞ。やっぱりわが子だ。野戦でも風流の道は忘れてはいない」
「どんな句ですか」
「三句ある。
  結ばれぬ露営に夢や時鳥   
  血を払ふ太刀の光の寒さかな  
  いさましう我もちりたし白牡丹             
 少しばかり勇ましい句だ。軍人らしい一面も忘れてはいないようだ。無理をしなければいいが」
「そんなに死に急がなくても、早く生きて戻ってくればいいのに」
 佐乃は十湖の側に寄り添い、手紙を覗き見しながら小声で言った。
「いや軍人は常に生死を彷徨っている。俳句が奴の慰めになっているのだろう」
 いつもなら大きな声でわめき散らすところだが、心なしか神妙な顔つきをして穏やかな声の十湖であった。
 次男藤吉は十湖自慢の子供であった。
 小さい頃から俳句に興じ、めきめきと頭角を現した。
 十湖が引佐麁玉郡長として赴任中の明治十八年のこと、旧気賀の領主徳川家の旗本近藤家に子供がなかったため嗣子がなく、家が断絶しそうだという話を聞き、思案の末に養子として藤吉が近藤登之助を世襲した。
 藤吉は俳人の子として育っていたため俳句にも精通し、のちに四時庵友月と号し俳句を作っていた。すでに近藤家の養子に相応しい文化的素養を身に付けた自慢の子であった。
 だが悲しいことに、日本は戦争へと突入していく時代であった。
 明治三十年、藤吉は二十一歳で軍人に志願し、翌年には歩兵二等軍曹となり静岡第三十四連隊付けとなった。浜松駅が出征兵士で賑っている頃には既に満州の地へ向かっていた。
 こうして手元に彼の俳句が届くのも、戦地からだと思うとなんとも言われぬ寂しさ悲しさに襲われる。
 ――藤吉は不憫な奴だ
 十湖はひとりつぶやきながら、頭の中ではなにやら思案をしていた。
「そうだ、戦地の俳人友月を応援してやろう。奴の好きな句会を開き、皆で励ますのはどうだろうか」
 これなら自分の藤吉に対する不安な想いも紛れるではないかと。さて具体的にはどうやるかが問題であった。

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2024年1月13日 (土)

俳人十湖讃歌 第143回 息子の戦死(2)

  鷹野つぎの「娘と時代」の一節「日露戦争」はさらに続けて女学校生活を綴っている。
「私の女学校では開戦以来、生徒に対しては絹物の使用を絶対に禁じていたので、友達はみな更紗染めや、二子縞やらの木綿ものを着込んで、これだけは許されていた黒色の絹リボンを廂髪にのつけてあつまつていた。
 それがまた、お互いに鵜の目、鷹の目で、絹物と木綿ものみわけようとするので、おしやれをするよりも、うつかりはしていられなかつた。なかには爪で布地をガリガリとこすつてためしに来る者さへあつた。 
 ある朝、うかつにも、私が紅絹の襟をつけた襦袢を着て登校して行つたら、よつてたかつて、忽ちその紅絹をはぎとられてしまつた。
 かういふさわぎはその実は、ことに楽しい団欒で、みんながみな、一様に質素にするといふ一心一体の報国心をわづかな不注意をも正して、高唱しているやうなものであつた。
 学校では、出征遺家族の持参してきた千人針をさかんに結んだ。私のくみの者は、多くは寅年であつたから、みなが十五の歳のかずだけた。途中で糸を繋がないやうにと。…
 町では明治三十四年に創立されていた愛国婦人会の会員たちがめざましく活動しはじめた。
  汽車で征途に上る兵隊さんたちの、途中下車の休憩駅にあてられた浜松駅前の広場にバラック建の歓迎ホールが急増され、私たちも級を分つて、交々声援に出向いて行つた。
 このホールには大きなオルガンが備へつけられ、休憩の兵隊さんたちに、茶菓をさしあげ、くつろいでいられる間に、私たちはオルガンに合わせて、征途を送るにふさはしいいろいろの唱歌をうたつた。」Tugi01_20240113101501

 文中の女学校は浜松町立尋常高等女学校のことで、現在の浜松市立高等学校である。つぎら女学生は二月三月の寒い日も、戦地に行く兵隊を思うと寒いなどとはいえず、襟巻きも手袋も取り去って見送りをしたという。       
 同じころ十湖は冬日が差し込む縁側で、ぼんやりと庭の落葉した樹々を眺めていた。
「藤吉から手紙が届きましたよ」
 十湖の妻佐乃がうれしそうに郵便を手にしながら廊下を走ってくる。
 十湖は佐乃が差し出した手紙の封を切り、急いで取り出し読み始めると妻に云った。
「そうか。藤吉の奴元気にやっておるか。満州へ出征し遼東で激戦に参加とある」
「激戦ですか。あぶないですね。無事でよかったのはいいですけど」
「そればかりではない。台湾の戦いでは功労賞を貰ったと書いてある」
 佐乃は別段嬉しそうな顔はせず首を傾けて、手紙を読み聞かせる十湖を見つめている。


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2024年1月 3日 (水)

俳人十湖讃歌 第142回 息子の戦死(1)

   明治二十七年に開戦した日清戦争が翌年四月に勝利すると、日本はさらに軍備を拡張し日露戦争へと突き進んでいく。
 ロシアとの戦争は文字通り国の総力を挙げての戦いで、戦費だけでも約十八億円、これは戦争前の日本の国家予算の六倍以上になる。国はそのため増税、次に国債を発行した。
 この戦争で従軍した日本の兵士は百九万人と言われ、およそ半分が男性だとすると男子二十二~二十三人に一人という計算になる。
 そのうち、およそ八万八千人の兵士が亡くなり、傷病者になった兵士は四十万人を超えた。出征した兵士の半数が何らかの犠牲を被ったことになる。
 明治三十七年二月八日、陸軍先遣隊は仁川に上陸を開始、連合艦隊は旅順港外のロシア軍艦を攻撃し、翌九日には仁川で軍艦二隻を撃破した。 国内は戦勝に沸いていた。
 同じころ、浜松駅停車場では多くの出征兵士の見送り人でごった返していた。
 一方出征・帰還の将兵を接待する施設も駅に備えられていて、日夜にわたり送迎接待にあたっていた。
 愛国婦人会という会員四十五万人を擁す団体が、兵士たちに慰問品を送ったり、出征兵士の家族を励ましたりと盛んに活動していた。
 市内の学校でも戦争に協力することが求められ、出征兵士の見送りや戦況が有利に展開している時は祝賀行事の開催をした。
 当時の状況は同時代に浜松が生んだ女流文学者鷹野つぎの自著の中で、詳しく回想されているので引用しよう。
「娘と時代」の一節に日露戦争と題し

 ――ああ、それは明治三十七年といふ、記憶すべき重大な年の元旦を、私たちは迎へた。私は数へ年十五歳になつた。実に、この年の紀元節の前日、二月十日は、露国に対する宣戦の詔勅が下されたのである。
「号外、号外!」
 と連呼して街路を鈴をならして走って行く声。
二月二十四日には、旅順港口に閉鎖作業を開始し、三月二十六日には、旅順港口にての軍神廣瀬中佐と杉野兵曹長の戦死があった。
 心のさだまらない、少女期の私の心にも、これらの戦報にて、澄みきったお国を思ふ一念が燃えたち、廣瀬中佐の死には、もったいなくて、くやし涙がこぼれた。

Gogai

 

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