16姨捨紀行

長野の画家で俳人の瀬在欽采から句会の招きがあった。一体どんな月を見たことか

2024年3月31日 (日)

俳人十湖讃歌 第162回 姨捨紀行(15)

 社に着くと宿坊久山館の主人の案内で大玄関を通り、八畳間に案内された。
 本館は風格ある神殿造りで、存在感ある柱・梁に囲まれたゆったり広い空間である。これならくつろげそうだと思った。
 広間からは、苔むした庭園が眺められ、石橋のある池の左右には小滝他七つの滝があった。
 たそがれ時には霧も出て、庭の木賊にまつわり風情がある。
 夕餉には待望の蕎麦を戴き人心地もついた。
 翌朝、主人が短冊を持ってきて句を所望されたので、十湖は一句認めて坊を去った。
 さらに奥社へ向かう。これからは道が険しく肌寒い。
 戸隠神社は霊山・戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる。
 その起こりは遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々を祀っている。
明治になって戸隠は神仏分離の対象になり、寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社と名前を変えていた。
 九頭龍社では天手力雄命を拝し九頭龍神に額ずいた。

   男手に尾鰭を落とす紅葉かな

 奥社に着いた頃には昼餉の時間になっていた。
 途中で俳諧師一茶翁の碑に参ろうと思ったが、さすがに疲れており、宿坊へ戻り庭の木賊を貰い下山した。

   戸隠や菓子の名も亦そばの花
   雲霧の深く戸さすや奥の宮

 三日後、犀北館に十湖の姿があった。
 未だ五十七才だというのに、戸隠行脚は季節柄厳しかったと反省しきりであった。
 花器に挿した木賊を眺め、これもいい体験だったと打ち消していた。
 十一月十五日、これまでせわになった衣里川社中の人々と別れるにあたり、瀬在欽采が送別の句を披露する。

    見送りや汚れぬ橋の霜踏て

 それに対し十湖は留別の句を詠んだ。

   内川に心を残す時雨かな

 四箇月に及ぶ信濃行脚の旅は、十湖一行が癒される日々でもあった。
 招待してくれた欽采の心配りとその家族をはじめ衣里川社中の仲間たちが暖かくもてなしてくれた事への感謝の気持ちを留別の句に託したのである。
 内川に思いを寄せる一行の未練は、降り出した時雨がそっと流してくれているのであった。

 十湖一行は暮が押し迫った十二月二十六日、すべての日程を終了し帰庵した。

Utikawani

 

 

(完)

 この起稿に当たり、故瀬在欽菜氏のご子息にあたる瀬在有年様より資料の提供をいただきました。心よりお礼申し上げます。
Kurasina

 

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2024年3月28日 (木)

俳人十湖讃歌 第161回 姨捨紀行(14)

 後日談として温泉(現上山田ホテル)に今も残るとされる「延命の湯」の句碑は、この短冊を元に彫ったもので、新潟県境の大石を運んで、長野市松代町金井在住の新井唯一石匠によって刻字された。建立は平成元年九月二十七日とある。
この年の春、地元の郷土研究家高中静美氏(祖父春雄)が十湖の孫である桐山氏と曽孫である奈雲氏を案内して姨捨長楽寺と倉科に建つ十湖句碑を訪ねた。
 以下は高中氏の書いた紹介文から引用させていただく。
「よもや祖父春雄も十湖翁も、八十年も後の世にそれぞれの孫たちがつれだって句碑を訪ね歩くなどとは思いもよらぬことでしたろう。その夜、ひと夜の泊りに上山田ホテルを頼んでおきました。女将さんに声をかけていただき、不思議な縁の糸をたどるようにして三人旅の事情をお話しました。そして、かつて松島十湖が上山田温泉に泊って詠んだ「宿の湯にのばす命や千代の秋」という句のあることをお話しすると、女将さんが不意に「その句をウチで碑にさせて下さいな」といわれ、私たち三人は驚いて顔を見合わせているばかりでした。以下略」

 明治三十八年十一月三日、上山田温泉から長野の犀北館へ戻るやいなや弟子たちはそのまま残し、欽采らとともに戸隠へ向かう。
 先月来、信濃毎日の記者から戸隠での吟行を取材したいとの申し入れがあり、瀬在欽采等と冬の戸隠を目指す。
 案内は東松露香、同行は欽采をはじめ松木一枝であった。
 欽采等には事前に伝えてなかったので、草庵では驚いていた。
 戸隠高原付近はすでに秋模様は過ぎ、途中の飯綱原では横風強く徒に寒かった。往く手左に見える安曇野の山は真っ白であった。
 十湖はその時の機嫌で、戸隠へ吟行に行くと了解をしたものの、季節の変わり身にいささか面食らった。
 松木の門下と名乗る淺川村の門沢葉山氏が居合わせ、途中で芋を肴に酒を酌み交わした。五臓六腑に染み渡る燗酒は冷えた体を甦らせた。
 やっとの思いで戸隠神社の一の鳥居へ辿り着く。

  散り残る紅葉かさすや山日和
  白い山青い山見る枯野かな
  見上るや吹雪の中の大鳥居
Kamiyamadaonsen

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2024年3月25日 (月)

俳人十湖讃歌 第160回 姨捨紀行(13)

 待っていたかのように、同行の一人最年少の冬至庵閑里がはしゃぎ出した。
「どちらへ行きますか。行くなら温泉が良いなあ」
「上山田温泉はどうだ。二年前に開湯したばかりで新しい。皆はどうする」
 十湖は大木随処、柳園成佳にも意向を訊ねた。 
「今、この地域は米の収穫時期で忙しいでしょう。連歌を巻くといっても客が来るかどうか。評判の曲水館なら多少の客は見込めるかもしれませんが」
 随処が心配そうに応えた。
「それなら、曲水館を目指すとするか。閑里はいいな」
「温泉で宴会ではないのですか。玉には連歌なしでというわけにはいきませんか」
 名指しされた閑里は少し怪訝そうな顔で、それでもしぶしぶ承知した。
 二晩を上山田温泉で湯舟につかり旅の疲れを養う。
 その夜、十湖にとって久しぶりに気分を変えての発句である。

   寝心も初冬ぶりや温泉のほとり
   宿の湯に延ばす命や千代の秋

 このとき短冊に認めて後日欽采に贈った。

Togakushi1
(戸隠池)

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2024年3月23日 (土)

俳人十湖讃歌 第159回 姨捨紀行(12)

 欽采の自宅更科庵に杖をとどめること数日、連歌を巻き、地元の俳人等と対吟を愉しんだ。
 夕餉に少しばかり酒が進んだときだった。欽采が半紙ほどではないが短めの紙に描いたものを持ってきた。
「師匠、これは私が画いたものですが、いかがですか」
 十湖が注いだ杯の酒を口に入れようとするのを、欽采が塞ぐように目の前に差し出した。
「これは誰の顔じゃ。いい男だな、美味く描けている」
 十湖は上機嫌で冷やかす。
「言うまでもなく師匠の姿ですよ。せっかく信州へ来てくれたのに、去った後に何もないのは心もとない。私が記念に残しておこうと描いてみました」 
「気に召すも召さぬもないわい。画はうまくできている。さすが欽采だ。だが余白が淋しい。わしが揮毫しよう」
「はい、ぜひお願いします」
 弟子が持ってきた筆で、十湖は欽采の画に書き足し、あっという間に句を披露した。

  山々を船に数へて月ひと夜

 この句はここで発句したのではなく二十年前に伊勢へ行脚した折に詠んだものだった。
 今でも同じ心境にいると思い、この句を添えたものだった。 
 それに信州へ来ては、そばの味にも舌鼓を打ち何度食べても飽きないと堪能していた。

  更科や月にまたこのそばの味

 皆で象山にも登り吟行をした。
 まさに心から楽しめた信州行脚だったと月にも欽采らにも感謝した。
 早いもので暦は秋へと移り十月の末を迎えている。
 来月の初めには倉科村で建碑式を挙行する予定があり、ここらへんで少し息抜きでもしようと、十湖は一行に声をかけてみた。

Jigazo

 

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2024年3月17日 (日)

俳人十湖讃歌 第158回 姨捨紀行(11)

 十月十一日、信州へ旅立ってから早一ヶ月が過ぎようとしていた。
 かねてから欽采が準備していた十湖の句碑建立を、こんなに早く執り行うとは思いもかけなかった。
 一行は姥捨の長楽寺へ式典のため向かった。 
 長楽寺では欽采はじめ地元の俳人等が、十湖一行の来るのを首長くして待っている。
 芭蕉忌を兼ね十湖の句碑を建立する手はずとなっていた。
 発起人は地元の俳句会衣里川社中、主幹は和楽園欽采により挙行され、欽采は未だ二十歳代だが、式は手際よくすすめられた。
 建立した句碑には、芭蕉が月を見るために辿り着いたと言う、更科紀行を意識して

  月の都まことに月の都かな

と十湖直筆で刻まれていた。
 長楽寺の境内には多くの歌碑や句碑がある。
 門脇には松尾芭蕉の句「俤や姥一人なく月の友」を刻んだおもかげ塚(芭蕉翁面影塚)がある。陸前松崎の「松島やああ松島や松島や」、常陸鹿島の「月はやし梢は雨を待ちながら」とともに日本三塚に数えられているという。なお、松尾芭蕉が姨捨山の月を眺めに木曽路から当地を訪れた更科紀行でこの句を詠んだのは貞亨五年=元禄元年(一六八八年)のことである。おもかげ塚の建立は明和六年(一七六九年)に加舎白雄(かやしらお)の手によってである。
 また小林一茶は四度の来訪があったとされている。
 その塚にこの日十湖の句碑がひとつ加わった。名実ともに十湖が蕉風の後継者を誇示していた。
 建碑の後、祝いと「後の月」の句会を開く。十湖は一貫して「月」を意識しこの日の句会では総じて季語は「月」であった。
 芭蕉忌でもあり、芭蕉と一体となって姨捨の句会に参加したかったのだろう。
 脇句俳諧の連句では、租翁が

   いざ宵はまたさらしなの都かな

 と発句すれば、続いて十湖は

   其さらしなの後の夜の月

 建碑祝吟では

   清永井やむかしながらの月ひとつ

 「後の月」句会では

   もの凄し姨捨山ののちの月

 姨捨の月は棚田の溜まり水に満月を映し、さながら「田毎の月」を演じていた。
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2024年3月16日 (土)

俳人十湖讃歌 第157回 姨捨紀行(10)

   今回の旅は、言うまでもなく欽采からの招待によるものだ。
 招待の手紙には欽采からの悩みが付け加えられていた。十湖は招待に応ずるかどうかと言う前に欽采への悩みに答えて手紙で返していた。
 欽采は便りの中でこう綴っていた。
 ――今年の春先に、働き手が少なく自ら家業である農業が忙しくなった。そのため俳句を作る暇も、画を描く暇もない。まして本を読むなんてできない。家を出てしまえば自らの発句も画も自由に描けるのに
 と言う内容のものだった。
 これに対し十湖の返事は
 ――俳句も大切だが、それ以上に家業も大切だ。家業を大切にする俳諧だと思うべし
 と忠告していた。手紙の末尾には十湖の句をふたつ添えた。

  色も香も嬉しきものは新茶かな
  川中によき村ありて夏木立

 十湖からの返事は欽采の迷える気持ちを揺るがしたようだった。
 それから一ヵ月後、再び十湖は欽采宛に手紙を出し、欽采の招きに気持ちを改めて応じたのだった。まったくもって清々しい想いでの旅立ちとなった。
 今こうして来てみれば、家族全員で暖かく迎えてくれていることに感謝した。 
 同行のひとり閑里は小柄だがよく食べる。
 朝餉の広間には彼のたくわんを噛む音がいつまでも響いていた。
 月内はこの地に逗留し、句会を開き地域の俳人等と交流した。
 月が替わり明治三十八年十月、再び長野善光寺前の旅館犀北館へ移り、連歌を巻いたりして句会を開催した。
 犀北館からの眺めは、鷲尾山が良く見え十湖は気に入っていた。山は秋の気配を感じさせ、夕照に輝く風景は十湖に発句を促した。

  手にとれば矢の根石なり夕紅葉

Knsai01

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2024年3月14日 (木)

俳人十湖讃歌 第156回 姨捨紀行(9)

  九月ニ十一日、十湖一行は埴科郡五加村瀨在周平宅に移動し腰を降ろした。
 翌朝、瀨在周平宅の広間で朝餉を迎えていた。
「皆様昨夜はお疲れでしたでしょう。今日はここに朝餉の支度をしてお待ちしておりました」
 主の瀨在周平が一行の前に膳を置きながら挨拶をした。
 十湖一行はきまり悪そうに頭を垂れて聞いていた。
 昨夜は善光寺からの移動中、したたか酒を飲み、瀬在宅に着いた頃には皆ご機嫌なほど酔っており、夕餉もとらず眠ってしまった。
「昨夜は大変迷惑をかけた。つい心を許してしまって皆ご機嫌で辿り着いた」
 十湖が代表して詫びをいった。
「いえいえそんなことは気にしなくても。今朝は新米を炊いて、皆様の膳を用意いたしました。お召し上がりください」
 鄭重な主の言葉使いに十湖は背筋を伸ばしながら椀を取上げた。
「それはありがたい。飯の香りがいい」
 随処はそう云いながら閑里の顔を窺った。閑里は既に箸を付けていた。
「先生にはこの度は大変貴重なご意見を頂き、おかげさまで今日の新米が出来るに至りました」
 主の周平の隣にいた息子の欽采が膝に手を置きながら応えた。
「そうか、少しは家業にも精を出したか、それがいい。俳諧師は俳諧だけしていれば上手い俳句ができるかと言えばそんなことはない。わしが若い頃は農業を奨励しながら俳句の普及を進めてきた。二宮尊徳の報徳の教えは働く事への奨励であり、俳句は芭蕉の自然への謳歌である。どちらが欠けても良い俳句は生まれまい」
「この分で行けば来年はもっと良い米ができるはずです。欽采にはこのまま家業を継いで頂き、俳句にも、好きな絵にも打ち込んでくれれば申し分がないと思っています」
周平は欽采を横目でみながら付け加えた。

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(当時の善行寺周辺)

 

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2024年3月13日 (水)

俳人十湖讃歌 第155回 姨捨紀行(8)

   長野駅に降り立った一行は早速、善光寺を目指して歩き始めた。
 今晩の宿は、その道中で一番良いところにしようという十湖のことばに甘えて、同行の三人は顔を左右に忙しく動かしていた。
 長野駅が開業して既に十五年以上経ち、町の景観は大きく変わった。善光寺参詣の形態も様変わりして、善光寺参詣団体が各地から訪れるようになり、仲見世にも参詣団体を受け入れる旅館が多くなった。
 いっこうに決まらない宿泊先に、やきもきしていた十湖が突然そこが良いと大きな旅館を指した。
 結局、今日からは犀北館へ投宿することに決まった。
 泊まるところが決まれば、腹ごしらえだ。とたんに一行は思い思いのほうへ目が惹かれる。
 仲見世の賑わいに皆の心が躍っていた。
 大門の辺りに差し掛かった時、鐘鋳川端にお茶屋が軒を連ね、参詣客がひと休みしている。
「この甘酸っぱい匂いは酒饅頭ですね。善男善女は皆口にするのでしょうか」
 閑里が鼻を鳴らして随処を見る。
「ここらでお茶でもいかがですか」
 随処は赤い毛氈のひかれた休み場を指差して、十湖に休憩を促した。酒飲みだからといって、甘いものが嫌いではない。
 一行は「つるや」と暖簾の架かった店先で一服することにした。
 十湖は出された饅頭を一口頬張ると、淡泊で甘酸っぱい酒饅頭特有の風味を味わいつつ発句した。

   鐘鋳川真如の月や宿すらん

 隣に座っていた随処は、閑里が残った饅頭を口いっぱいに頬張っている様子を見て、まだ子供だなと苦笑いをしていた。
 この日から1週間は犀北館に逗留し句会を催した。
 この地域における俳諧への思い入れはすこぶる強く、連日盛況であった。

Zenkoji

(当時の善光寺周辺)

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2024年3月 9日 (土)

俳人十湖讃歌 第154回 姨捨紀行(7)

「千枚田の向こうに広がるのが善光寺平で、武田と上杉の川中島の合戦の場だったんですね」
 同行の中で一番若い閑里が眼下を指した。
「長閑でいい景色だ。ここでも句は詠めるぞ。閑里、どうだ一句できたか」
 隣にいた柳園成佳が軽く頷き言った。
「句はできませんけど、ここ姨捨の紀行文の一節を紹介しましょうか」
「ほおう、句なら芭蕉も一茶も詠んでるが、閑里は紀行文まで仕込んできたのか」
「成佳さん、せっかくここまで連れて来てもらったのに何も知識を持ち合わせていないでは皆さんに申し訳がない。それで」
 閑里は自慢そうに、おもむろに懐から綴じ本を出して読み始めた。
「姨石の上にのぼれば、日のくれかかりたるに、も々斗の人居並び在て、月のいでなんを念じて待たるに、・・・何くれと口のうちにずし、けぶりふさいで、あるは、かしらをふせて箕居し、ものかげはさしのぞきて、からうたやあらん、やまとうたやあらん、よき句やいで給ならんと、しのびやかにかたらひ、かくやいかが、こはおかし、・・・みつわざしてうそぶき、みじかきつかの筆をかたにあげてねぶり・・・」
「作者は誰かな。文章はおもしろい」
 成佳は納得したような顔をして聞いた。
閑里は早速質問に答えようとしていた。作者は江戸時代の漂泊の国学者菅江真澄である。三河出身で長野から北海道まで旅をし、見聞したことを記録として残していた。閑里が読んだのは姨捨の観月描写の部分だった。日暮れ前から姨石の上には百人もの人がいて月が出るのを待っていた。いい句ができないかとささやいたり話し合ったりしているというもの。まるで花見見物のように月見をしているのを表現していた。

  名月やどこに居ても人の邪魔

 十湖のそばに立っていた随処が句を口にした。
「一茶も句を詠んだ。これは俳人だけではなく庶民にとっても月見が楽しみのひとつだったことをうかがい知ることができるものだ」
 一行が景色を眺め、時間の経つのも忘れていたところへ、黒煙を吐きながら列車が滑り込んだ。
 ホームで乗るのは十湖等一行だけであった。
Tukinomiyako

 

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2024年3月 6日 (水)

俳人十湖讃歌 第153回 姨捨紀行(6)

 再び列車は下り姨捨駅に着いたころには陽が沈みつつあり、代わって上弦の月が東の空に浮かんでいた。
 今晩の宿は姨捨の長楽寺である。招待してくれた瀬在欽采がすでに寺への手配をしてくれていた。
「芭蕉翁もこの月を見にきたのだなあ」
 十湖は感慨深く月を眺めていた。

   姥捨や月にひもとく歌袋

 長楽寺に佇んでいると、芭蕉と一体になっている感があり、句が沸いてくるような思いがした。
 山号は姨捨山放光院長楽寺。信濃三十三観音霊場第十四番札所にあたる。
 境内からは眼下の眺望がよく、芭蕉が月を眺めに木曽路から姨捨のこの地までやってきて句を詠んだと云われていた。
 十湖は芭蕉の更科紀行を反芻していた。
 同月十五日早朝、境内から眼下を望んでいた十湖の側に随処が寄って来た。
「師匠相変わらず朝が早いですね。よく眠れましたか」
 随処が眠い目をこすりながら声をかけた。
「うーむ。空気が爽やかなせいで目覚めがいい。それに」
 十湖は言いかけて、長い白髭を撫でながら言葉を続けた。
「二、三日善光寺の参詣に行ってみようと思うのだが、せっかくここまで来たことだし善光寺参りはしたことがないだろう」
「それは願ったり叶ったりです。こちらから申し出ようと思っていたのですが、是非に同行させていただきます。月に願いが通じたのかなあ」
 随処は他の二人にも伝えてくるといって庫裏へ走っていた。
 篠ノ井線の姨捨駅は標高五百五十一メートルの山の中腹にある。明治三十三年十一月一日国鉄篠ノ井線篠ノ井駅 - 西条駅間の開通と同時に開業し真新しい駅舎であった。
 一行は篠ノ井線(下り) 篠ノ井・長野方面 のホームに立ち、絶景の眺めを堪能していた。
 先日初めて駅を降りたときは既に夕まずめで、東の空に月が薄ぼんやりと輝いていた。今朝の駅は善光寺平を見下ろす絶景が広がっている。十湖はホームにひとつだけあった木製の椅子に腰掛け、句をひねっている様な素振りをしていた。
Tagoto
(姨捨からの眺望)

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