19出雲の風

出雲の旅「万世や神の出雲の風薫る」と詠むがどこかで聞いたような。   

2024年6月15日 (土)

俳人十湖讃歌 第179回 出雲の風(7)

 出雲を出たのが六月二十三日前後、帰路はそれぞれの招待者宅へ寄っての句会挙行である。ここへきて忙しい日々となる。
 浜松の自宅を出て既に二十三日を過ぎ、疲れを知らない十湖宗匠六十四歳の時である。
 少し行く先々を列記してみると、
 二十四日、亀岡町の内藤木公宅を訪ねる。
 これより但馬鶴山、天橋立、鶴民園、玄武洞と周り、とびうおをはじめ海の幸を堪能した。
 二十八日、亀岡町にて吟会を挙行する。
 翌日は保津川を舟で下り、亀岡の人々の送迎を受け、六月三十日午後七時、京都へ到着するその夜、米沢亭へ泊まる。
 六月三日から泊まって以来、半月で同宿に戻ってきた。
 どうもここでは十湖のいつもの癖が出て大はしゃぎの感あり。宴会は盛大に執り行われた。
 十湖につられて米沢亭の主人自ら、狸踊りでもやらかしたのかと思いきや、なんと十湖は主人を多芸多能で楽焼の名手とほめたたえた。
 句まで読上げて

     うて聞かん月に狸の腹つづみ

 これより先は足取り不明だが、七月四日午前十時豊橋の鷹野宅で俳人有志主催の句会に出席。
 翌日、自宅浜松中善地へ帰着した。
 約一ヶ月以上にわたる長旅は無事終了した。出雲の紀行で万代の平和と幸福を句にこめてきた十湖だったが、まさか豊橋で幸せに暮らしていた鷹野一家の主に事件が起こっていたとは思ってもみなかった。
                   (完)

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(保津川下り)

 

 

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2024年6月12日 (水)

俳人十湖讃歌 第178回 出雲の風(6)

 出雲では連日、当地の門人たちが名所、旧跡を案内してくれて句を詠んでいる。
 風雅を愛し蕉風を名乗る十湖宗匠にとって出雲地紀行のクライマックスには、安来港、出雲清水寺、出雲大社、その先の大山へも立寄り、山陰の富士山である伯耆富士を愛でている。
 ところが、季節は梅雨真っ最中で大山駅(現在の大山口)へ降り立っても靄でその先が見えない。
 どうしたものかと思案に暮れていたところ、十湖の祈りが通じたのか靄の一部が少しずつ切れてきた。
 大山の頂上がくっきりと眼前に現れたのだ。
 大山が富士山に似て見えるのは、米子方面かここらあたりしかない。それを承知で駅をり立ったのか、それとも単なる偶然だったのか。   

     靄の中にさぐりあてたり伯耆富士

 大山を目の当たりにした雄大な景を十七字に収めた。
 旅の途中に京都の新聞で「出雲路から」と題し宗匠の記事、俳句が紹介される。
 出雲大社に詣でて詠んだ句は

     万世や神の出雲の風薫る

 この句をどこかで聞いたことがあるだろうか。
 出雲への句会の招待状が来たときに、金の工面ができずに座禅堂で行ったつもりで詠んだ句のひとつだった。

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2024年6月 8日 (土)

俳人十湖讃歌 第177回 出雲の風(5)

 小倉山の麓に行ったときは、報徳精神の農業者らしく広がる田んぼを見て句を披露した。

     色紙形短冊形や苗代田

 浜松を出立して以来五日も京都に逗留していた。
 京都には名残惜しいが、出雲へ向かうこととした。
 今回の旅の始まりを振り返ってみると、鳥取の仲間からは以前から招待の予想はしていた。
 だが、なぜこの時期に門人たちは自分を招いてくれたのか。
 東海道線は開通して既に二十年以上経過している。山陰線は途中の区間が開通していても、全線開通までには至っていなかった。
 それが開通したのが明治四十五年三月。
 その前年の二月には高さ四十一.五メートルの餘部橋梁が完成している。
 十湖を慕う門人たちはこの開通を大いに喜び、十湖にも是非にと招待するのに及んだではないかと思われる。持つべきは友である。
 六月五日城ノ崎で途中下車し日和山にて吟行を楽しみ、出雲安来の門人木村芙蓉方へ向かった。
 その夜、因幡屋へ投宿する。
 宿は出雲大社の近くで、小泉八雲やラフカデオ・ハーンの宿としても有名なようで、当時は現在でいう五つ星クラスの旅館ではなかったか。

 

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(鳥取 大山)

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2024年6月 4日 (火)

俳人十湖讃歌 第176回 出雲の風(4)

 鳥取の俳人仲間から招待状が届いたのは五月だったが、出発の日は既に六月になっていた。
 当時の浜松日報はこの時の様子を次のように読者に伝えていた。
「十湖翁出杖 出雲の門人たちの招きで出雲路行脚行き、約一ヶ月の予定」
 明治四十五年六月一日浜松発午後二時十一分の急行に乗り込んだ。
 首尾良く旅立てることに気を良くし、鬱陶しい梅雨時でも心涼しい十湖であった。
 列車内では流れる景色を見ながら、珍しく短歌を口にしていた。

     神風の誘う出雲の初たびに心涼しく首途するかな

 いつもなら同行者が二人は居るはずだが、単身の旅は妙に心うき立ち、車窓から入る風に自慢の白ひげを靡かせていた十湖であった。
 同日、京都に着く。京都の句会へ招待してくれた半仙ほか俳人等数十人の出迎えを受ける。
 丹波の木公もわざわざ京都まで出迎えに来ていた。
 対する十湖はこの時六十四歳、俳人として絶頂期にあり自身満々の態度であった。
 翌日は京都嵐山に遊び、初なすびで酒も少しばかりいってしまった。
 三日目以降は京都千本五社下る米沢亭にて滞在し、京都の俳人ら五人の案内で去来翁の墓をたずね落柿舎、愛宕山へ行く。

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2024年6月 1日 (土)

俳人十湖讃歌 第175回 出雲の風(3)

 今の十湖の心境は動機が不純である。自問自答し自らの心を律した。
 坐禅をすること一時間を過ぎて座を崩したとき、出雲にいきたいとの切なる希望が句になっていく。

  万代や神の出雲の風薫る
  涼しさや見ぬ橋立の眼に浮かぶ

 この様子を俳人仲間が知ることとなり、自らの耳に届いたときには随分と噺に尾鰭がついていた。
 まもなく支援の輪が広がり、出雲までの行く先々となる現地から次々と句会への申し入れが届くこととなった。
 座禅のおかげで仏様まで味方につけてしまった。さすがに油の乗った頃の十湖である。
 やがて月末には金の都合がつき、念願の出雲地方へ出かけることが決定した。
 源長院と氏神様に参詣し、祖先様にも出発の報告した。
 十湖にとって、よほどこのことが嬉しかったのだろう。ここでも句を詠んでいた。

     夕立や断食の僧山を出る
     夕立や神ありてまた人ありて

 出雲行きの決意のほどがうかがわれる十湖であった。

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俳人十湖讃歌 第174回 出雲の風(2)

 翌年、鳥取県の俳人仲間から十湖のもとに句会の招待状が届く。
 予てより楽しみにしていた出雲行きが実現しそうなのである。
 行きたくて仕方がないのであるが、妻をはじめ弟子らから金策は困難だと云われればあきらめざるを得ない。
 この時は金の工面もつかず、やむなく中止にせざるをえなかった。
 十湖自身は旅の準備をしていたので、行くことができなくなったとはいえ出雲への未練はある。
 「金さえあれば行けたはずなのに」
 ひとり悔やみながらも、諦めは速い。
 気晴らしに笠井の町をぶらつくかと歩き始めた。
 菩提寺でもある源長院の参道に差し掛かったとき、ふと閃いたことがあった。
 「座禅堂に籠もり、出雲に行ったつもりで心に見える風景を吟行してみてはどうか」
 と少しは気休めになるのだろうと思った。
 住職に声をかけ座禅堂に足を踏み入れると、新緑の木々の間を抜け涼しい風が行過ぎていく。
 足を組み半眼にして今日の出来事を振り返っていた。これでは眠くなってしまうではないか。
 本来曹洞宗の坐禅は只管打坐(しかんたざ)でただひたすらに坐ることであり、何か他に目的があってそれを達成する手段として坐禅をするのではないはずだ。
Sando
(現在の源長院の参道)


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2024年5月13日 (月)

俳人十湖讃歌 第173回 出雲の風(1)

 十湖には、いつも金がない。
 かといって、まったく収入がないわけではないが、巷では貧中翁とも呼ばれていた。
 余り喜ばしい綽名ではないが、それにはそれなりのわけありであった。
 あるとき句会の座が盛り上がりご機嫌の十湖は、その時の気分次第でご祝儀を弾み、自筆の書の提供とともに大盤振る舞いをすることがあった。
 そればかりか道を歩いている時でさえ金に困っている人が居れば事情を聴き、必要があれば金を与えてしまう。
 それも有り金全部が入った財布までも差し出してしまう。
 だが、この程度ならまだましであった。
 明治四十四年の夏には十湖の地元に警察の官舎がないから困っているとの話を聞きつけ、多くの住民と寄付を集め建設計画を進めていた。
 ところがこの話は県から待ったがかかり、首謀者だった十湖はやむなく寄付金を協力者に戻す必要ができてしまった。 
 既に工事は進んでおり今更寄付金は返せれないから、自分の家、田畑を売って返そうと決意する。
 これを知った住民らは
「十湖様にすべてを押し付けて、責任をとってもらうというのは申し訳のないことだ。皆で何とかしなければいかん」
 と動いてくれたおかげで、売りに出した田畑、屋敷に買い手もつかなくなった。
 この一件はこれで解決したものの、万事において金の使い方は無頓着そのもので、様々な事件を引き起こしている。
 要するに十湖の天衣無縫の成せる業でもあった。
 金が貯まるはずはないのであった。
Takeyabu

 

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