俳人十湖讃歌 第191回 盟友(6)
この『櫻川事蹟考』の題字題詠は維新期の元勲元老院議官枢密院議長従二位伯爵東久世通禧、東大古典科教授内務省出仕小中村清矩、東大歴史科教授栗田寛、東大古典科佐々木信綱の三博士、前茨城県知事の高崎親章氏など、錚々たる人物の揮毫が巻頭を飾った。
装丁については竹馬の友であり、当時美術学校四年の木村武山こと信太郎が筆をふるった。
木村は岡倉天心の弟子で菱田春草や横山大観、下村観山などと共に日本画の発展に寄与した画家である。
翠葉若干二十歳にして刊行を実現したのであった。
その後桜川の宣伝活動を強化し、明治四十五年四月史蹟名勝天然記念物協会幹事戸川残花氏が、同協会評議員で理学博士の三好学氏による、侯爵徳川頼倫公(旧和歌山藩主)の内葵文庫の桜の会開催にあたり、『櫻川事蹟考』を推薦し前述のとおり五月現地視察の運びとなった。
十湖は封筒が厚いと思ったのは、この質の高い内容だったからかと悟り、長い文中からは並々ならぬ苦労と、その結果がもたらした桜の園の華麗な舞台を想像していた。
改元後の大正元年十一月、十湖は二か月前に盟友翠葉から届いた手紙の返事を書いていた。
彼が地元桜川の花の顕彰に務めた功を讃えて、十湖が詠んだ句を添えた。
名馬あり伯楽ありて桜狩り
花に来て涙そそぐや桜川
花笠の雫や落ちて咲く桜
翠葉が泪やこりて桜の実
今年は暗い気持ちまま年を越してしまうのかという不安を他所に、翠葉の手紙で十湖は甦ったのである。
(完)