21盟友

天皇崩御で落ち込んでいた十湖に、かつて東北に旅した友から突然の便りが届く何があったのか。

2024年8月31日 (土)

俳人十湖讃歌 第191回 盟友(6)

 この『櫻川事蹟考』の題字題詠は維新期の元勲元老院議官枢密院議長従二位伯爵東久世通禧、東大古典科教授内務省出仕小中村清矩、東大歴史科教授栗田寛、東大古典科佐々木信綱の三博士、前茨城県知事の高崎親章氏など、錚々たる人物の揮毫が巻頭を飾った。
 装丁については竹馬の友であり、当時美術学校四年の木村武山こと信太郎が筆をふるった。
 木村は岡倉天心の弟子で菱田春草や横山大観、下村観山などと共に日本画の発展に寄与した画家である。
 翠葉若干二十歳にして刊行を実現したのであった。
 その後桜川の宣伝活動を強化し、明治四十五年四月史蹟名勝天然記念物協会幹事戸川残花氏が、同協会評議員で理学博士の三好学氏による、侯爵徳川頼倫公(旧和歌山藩主)の内葵文庫の桜の会開催にあたり、『櫻川事蹟考』を推薦し前述のとおり五月現地視察の運びとなった。

 十湖は封筒が厚いと思ったのは、この質の高い内容だったからかと悟り、長い文中からは並々ならぬ苦労と、その結果がもたらした桜の園の華麗な舞台を想像していた。
 改元後の大正元年十一月、十湖は二か月前に盟友翠葉から届いた手紙の返事を書いていた。
 彼が地元桜川の花の顕彰に務めた功を讃えて、十湖が詠んだ句を添えた。

    名馬あり伯楽ありて桜狩り
    花に来て涙そそぐや桜川
    花笠の雫や落ちて咲く桜
    翠葉が泪やこりて桜の実

 今年は暗い気持ちまま年を越してしまうのかという不安を他所に、翠葉の手紙で十湖は甦ったのである。
(完)

History_suiyoukenshouhi1   (桜川市HPより)

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2024年8月28日 (水)

俳人十湖讃歌 第190回 盟友(5)

  このことは翠葉が著書で紹介した桜川という桜の名所を、将来国指定にするという内容であった。
 桜川は石倉翠葉の故郷であり、かつて紀貫之が

   常よりも春辺になれば桜川 波の花こそ 間なく寄すらめ

 と詠じてから、桜の名所として広く知られ、関西では吉野、関東では桜川とうわれるほどで、後花園天皇永享十年(一四三八)櫻川磯部稲村神社宮司磯部佑行氏が鎌倉に上り、時の鎌倉公方足利持氏に「桜児物語」一巻を献じ、これを幽玄能の大家世阿弥元清に作らせたのが謡曲「桜川」と言われている。
  このように調査し紹介したのが、翠葉の著書『櫻川事蹟考』であった。 
 明治二十八年五月十日、翠葉は事蹟考出版のため、両親が田畑を売り払って用意してくれた金と、親族入江菊次郎氏から提供してもらった資金の合計二百円を持って上京。
 まず名勝地顕揚のためということで、「桜川和歌集」広告三千枚を印刷、各地の歌会や歌人へ配る。
 その際の選者を歌人佐々木信綱氏に委嘱、集まった和歌を「櫻川事蹟考へ掲載すること」として資金にした。
 同年九月三日、『櫻川事蹟考』は自らが編集兼発行人となり、西茨城郡西那珂村大字西飯岡(現桜川市西飯岡)幽調館を発行所として千部発行した。

History_kuhi(桜川市HPより)

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2024年8月24日 (土)

俳人十湖讃歌 第189回 盟友(4)

 それから八年後の明治四十二年八月、翠葉から十湖のもとに俳誌「とちの葉」を発行するのでその選者になってほしいという話が来る。
 翠葉は郷里岩瀬に俳句結社「つくし会」をつくり、『荊城吟社』を興すなど俳句の興隆にも努めていた。
 翠葉はまだ若い。伸び盛りである。
 この頃には子規の門にも彼の俳諧活動は影響を及ぼしているとあって、俳諧の将来を託すには盟友以外の何物でもない。
 十湖にとって、それだけに期待も大きかった。
 さらに明治が終焉した今日、日本はどう進んでいくのか、国民世論には様々な面で不安があった。
 しかし、こと十湖に限っては、今回の翠葉の便りはその暗い心を払拭するにふさわしい出来事の知らせであった。
 手紙には石倉翠葉が明治二十八年に執筆発行した『櫻川事蹟考』が国に認められ、五月に侯爵徳川頼倫公一行が桜川視察を行ったときのことが書かれていた。手紙は長いので要点のみを記す。
「侯爵徳川頼倫公は三好学博士の講演と戸川残花先生の推賞並みに庵主(重継)の旧著二種を終日細読され、かかる名所を等閑に付す(なおざりにする)べからずと為し、俄に前記二氏を案内し、橘井南葵文庫掌書、家従を従え杖 曳杖、同侯の快調たる史蹟名勝天然記念物協会の名を以て保存金若干を櫻川磯部稲村神社へ奉納せられたる旨、戸川残花先生及び神社氏子総代より詳細庵主(重継)のもとへ報告せらることとなった」
 とあった。
Gallary_jinjya
(桜川神社:桜川市HPより)

 

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2024年8月17日 (土)

俳人十湖讃歌 第188回 盟友(3)

 かつての東北の旅が縁で、二人の間を俳句の友としてとりもっていたのだ。
 十湖は何度か弟子になれと言っては見たが、翠葉は一向に動じなかった。
 翠葉の言い分は
 「俳句だけは地元でコツコツ学んでいこうと思っている」
 からと十湖の申し出を断わっていた。
 十湖はいったん言い出したら後には引かない男だが、この時は負けてしまった。
 しかし、今回の手紙には即、返事を書く。
 盟友である翠葉の依頼になんの躊躇う理由があろうか。
 十湖は翠葉を盟友と呼んでいた。
 「俳句をするなら、今後は一生わしと共に歩め。いつでも力になる。そうだ、お前とは俳句の盟友だ」
 この言葉で翠葉は納得した。
 その後、彼が俳句のことで悩むと手紙を書いては送ってきた。
 字は丁寧で文は簡単明瞭、感情の起伏はなく、十湖とは全く反対の性格のように思えた。
 そのうえ選者としての十湖のことばは素直に受け入れていた。
 何れ俳人としても大成していくことだろうと期待していたのである。
 十湖にとって盟友と呼ばれる友に、もう一人東京に住む鈴木藤三郎がいた。
 財界人であり政治家である彼は報徳精神が人一倍強く出世頭であった。
 十湖の人生の大きな柱は俳句と報徳の普及である。
 報徳の盟友が鈴木藤三郎なら、俳句の盟友は石倉翠葉であった。
                                                                           (報徳の盟友 鈴木藤三郎)
Tosaburo

 

 

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2024年8月13日 (火)

俳人十湖讃歌 第187回 盟友(2)

 石倉翠葉との付き合いは十年以上前に遡る。
 はじめて翠葉と出会ったのが東北漫遊であった。
 このとき新聞記者だった石倉が同行取材を申し込んできたので一週間ほどの吟行取材を許す。それがお互いの親交を深める旅となった。
 当時、石倉については記者であるとの認識しか持ち合わせていなかった十湖だが、あえてそれ以上の要求をしたことはなかったと自問していた。
 ただ順調に旅をすればよかったことだった。
 ところが帰庵後、石倉がまさかと思われる抱負を持っていることに初めて気づいたのである。
 東北から帰った十湖には、あまりにも多忙な日々が待ち受けていた。
 これからは俳句三昧の生活に戻ると思っていた矢先、二俣町の地域紛争の仲裁依頼が舞い込んできた。
 この解決に至る経過は自らの郡長時代の交渉事項よりも厳しく、俳句どころではなかった。
 それでも解決の糸口が見つかり我家へ帰って来れたものの、主が不在の間は我家への収入は途絶えていた。
 世間では十湖のことを貧中翁と呼び噂となったほどだ。
 妻と弟子たちはこれを逆手にとって、全国の門人、弟子たちに活命料の名目で生活費の援助を願った。
 やがて、効が奏して年が越せた。
 そして今、翠葉から手紙が届く。思えば翠葉の歳は二十八歳になるころだろう。
 翠葉は俳人の号で、この時は花笠庵翠葉こと石倉重継であった。
 石倉はもともと文学志望で和歌の道を目指していたが何かの縁で日日新聞の記者となった。
 此度の手紙には
「社会人生活も一区切りがついたので今後は俳句の道に進みたい。いずれご指導をお願いしたいことがあるので、その時にはよろしく」
 と依頼の言葉が添えられていた。

Hamamatueki

(当時の浜松駅風景)

 

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2024年8月 6日 (火)

俳人十湖讃歌 第186回 盟友(1)

 明治四十五年七月三十日午前零時四十三分天皇崩御の悲報が伝えられ、各新聞は一斉に号外を発行した。
「大行天皇聖寿六十一歳にて崩御され皇太子嘉仁親王が即日践祚され年号は大正 」
 と改元されたことを十湖は自邸で知った。
 この号外を手にしていた十湖は、このまま家の中にじっとしていることができない衝動に駆られ、足は自然と笠井往還の方に向かって歩いている。
 街道の軒並みには黒布で竿先の玉を包んだ日の丸の弔旗が立てられ、ひっそりとしていた。
 十湖は当てもなく歩きながら、今日の有様を想い句に詠んでいた。
  明治天皇陛下の御崩御悼み奉りて

     天津日の雲かくれして夏寒し 

  新皇帝陛下の御践祚を祝し奉りて

     延長の皇威をふくや初あらし

 明治という年号の最後の日であったが、以来、十湖邸には来訪者も少なく、淡々と二か月が過ぎっていった。
 そんなある日一通の手紙が十湖の心に灯をともした。
 「あなた、お手紙です」
 妻佐乃が書斎で筆をとって半紙に書いている十湖に分厚い封筒を差し出した。
 最近は手紙もあまり来ない。天皇陛下の喪に服していたこともあって国民は活動をしていない所為だろうと感じていた。
 差出人は茨城県岩瀬の石倉翠葉からである。
「ほお、盟友からの便りじゃ。どうかしたかな」
 久しぶりに明るい表情で、妻の顔を見て軽い口を叩きながら封を切る。
 十湖六十四歳であった。

Kasaimachi(当時の笠井往還)

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