24鳴門の旧知

老境に至った十湖は正岡子規の登場で益々盛んに、伊勢の弟子からの招きに乗じ四国へ渡り旧知の富田久三郎との親交を温めようと旅立つ。

2025年1月24日 (金)

俳人十湖讃歌 第222回 鳴門の旧知(5)

 今回の旅は四国へ渡り、旧知の富田久三郎の案内で香川を巡る。
 どんな旅になるのか、十湖には旧交を温めることがなにより楽しみだったのである。
 岡山から四国へ渡り、真っ先に行ったのは琴平の金比羅宮である。

  八乙女やいよいよ神の風光る

 途中鹿島や壇ノ浦を巡り、発句にも熱が入る。

    老いの眼に霞む屋島壇ノ浦
 
 続いて高松栗林公園に遊び高松の俳誌の発行元を見学した。

  春や春その高松の鶴の声

 徳島に入ったときから久三郎が案内し、その夜は富田宅に泊まった。
 十湖は酒が進み、余興に乗じて句を揮毫したりした。久しぶりの再会で話が弾み、少々脱線した様子ではなかったか。

       青葉若葉匂ふや阿波の大鳴門

 翌日、阿波の鳴門を見物し、四国八十八ヶ所第一番札所霊山寺を参拝する。

  春風や渦をよけよけ進む船
  朝晴や春を耕す塩熊手
  引き立や鳴門若布の酒の味
  
 続いて同町内にある富田のつくった牧舎を案内される。
 ここではドイツ式牧舎と第一次世界大戦時のドイツ兵捕虜の指導を得て行なう酪農を見た。
 この時の写真が今も残っている。
 十湖を囲んでの記念撮影で、十人のドイツ人に囲まれて居心地が悪そうな顔をしている。そういえばここでの発句が残っていないのは見るものすべてに心を奪われその余裕がなかったのかもしれない。
 それに引き換え久三郎は白髪で口髭を伸ばし、着物の袖に両手を入れて腕組みをしている姿は、流石に大物の貫禄を見せている。
 淡路からの帰路は再び伊勢路へ戻る道を辿る。伊賀から大和月ヶ瀬に入り、梅の香にホッとしたのか発句は梅づくし、三週間の伊勢から淡路への旅は終わった。
 帰庵しての一句は安堵の様子が窺える、まだ春浅き大蕪庵であった。
      
   訪ふ人に春のあふるる庵かな

                              (完)

Cyusaburo

(写真:「富田製薬百年のあゆみ」より)

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2025年1月20日 (月)

俳人十湖讃歌 第221回 鳴門の旧知(4)

 鳥羽で遊んだ後は岡山へ出て四国に渡り、かつての報徳の同士と会う予定である。
 市野村出身の富田久三郎である。十湖より三つ下だからこのとき六十八歳になっている。
 明治十八年当時、十湖は引佐・麁玉郡長として公務に専念し、一方で農政改革のために西遠農学社を設立した。
 その活動をともにしていたのが、市野村出身の富田久三郎であった。
 富田久三郎は一八五二 年に遠州長上郡市野村(現、浜松市東区市野町)で生まれた。生家は姫街道の要衝で代々錺屋(かざりや)を営み、祖父保五郎は火術家(火薬に精通した技術者に対する江戸時代の呼称)として近隣で有名であった。
 久三郎はこの祖父の薫陶を受けて青年期より舎密(化学)を学んだ。
 二十五歳の時に当時高価な薬品であった炭酸マグネシュウムを苦汁から製造する方法を確立し、地元市野や浜名湖周辺で製薬業を拡大していった。
 そんな折、引佐麁玉郡長であった十湖から農家の副業についての相談があり、それに応えたところから久三郎との親交は深まっていった。
 青年期から壮年期にかけては、郷里遠州で金原明善と十湖の思想や行動に大いに感化されている。後年、久三郎がドイツ兵俘虜から技術を学び「 工農一体化」 を推進しようとしたのは、この二人の先輩の影響によるところが大きい。
 やがて、久三郎はさらなる事業拡大のために苦汁の大量供給地に進出すべきと考えるようになり、瀬戸内十州塩田の中から適地として撫養塩田を選び、遠州から阿波への移転を決意した。
 一八九二年久三郎四十歳の時に、風光明媚な小鳴門海峡沿いの、板野郡瀬戸村明神に富田製薬工場を開設した。

Koba39a(写真:「富田製薬百年のあゆみ」より)

 

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2025年1月12日 (日)

俳人十湖讃歌 第220回 鳴門の旧知(3)

 十湖は和尚の顔に眼を向けると、和尚は笑みを浮かべながら
「俳禅一味とは心に響く四文字ですな。後世に残したいことばですがのう」
「話は変わるが、かつて宮本武蔵は自らの剣の道を「剣禅一如」といっていたそうな。わしの俳句の道も同じようなものじゃ」
 十湖はそういって高笑いをした。
 和尚には俳禅一味の十湖の思いが伝わったらしい。
「わしはすでに門人知友と謀り、俳禅一味の碑石を浜名郡北浜村貴布祢に建てた。もって不朽に伝えようとな」
 得意そうな満面で腕組した手を解き、庭に向かって両手を広げ大あくびをしたのだった。
「雲林居士は地下にあって翁の古希を祝い、俳句の道一筋の宗匠に破顔一笑していることでしょうな」
 笑う和尚の声が境内の蝉しぐれにかき消されていた。十湖の心は既に伊勢路の旅に跳んでいた。

 大正八年三月、七十一歳になる十湖は再び伊勢路を行脚することになった。
 伊勢の門下生の招きで来る七日から出発する。同行は門人奇峰と常春である。
 いつものことであるが旅立ちの一句 
  
     神風に向こうて春の門出かな

 伊勢へ着けば何より先に伊勢神宮を参拝する。
 その後は各地で句会を開催し、鳥羽へ出てゆっくりする予定だ。
 だが今回の旅は少し十湖には秘めているものがある。旅立つ前に和尚には話さなかった、もう一か所の立ち寄り先のことである。

Haizenitimi

                            (十湖書)                    

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2025年1月10日 (金)

俳人十湖讃歌 第219回 鳴門の旧知(2)

「わしは俳句が文学でなくてはいかんとは思わぬ。子規の弟子たちが自らの句会を俳三昧と呼んで日常の様々な情景を詠んでいる。わしのすることと大して変わらん。三昧とは仏教用語で禅を意味し心を一時に集中することで俳句を練るという意味に通じる。わしが常々弟子に用いる格言に俳は禅なり禅は俳なりというのがある。つまり俳禅一味ということと一脈通じておる」
「翁らしいことばだ。せっかくだから涼風に吹かれながら、その辺をご教示いただきたい」
 うんうんと頷きながら和尚は膝を乗り出し云った。
「俳は禅なり禅は俳なりとは、昨年俳友の雲林居一哉の碑除幕式でしゃべったことだが」
 と十湖は前置きし、さらに続けた。
 二人とも顔は境内に咲く百日紅の花に向いていた。
「俳句も禅もどちらも理解し得ないと、俳味を理解したとは云えないのだ。雲林は荻野という徳のあった和尚の下に参禅することで、俳風を一変して基礎を確立したと聞く」
「要するに原点に立ち返って、基礎から学び始めたということですか」
「うーむ。こんな句が残っている。

  ――蚊のいくら来ても動かぬ柱かな

 雲林のこの一句は、俗を脱して禅に入らなければできなかったものだ。俳風一変したことで門人は百にも達し、雲林の薫陶によって名を為すものが少なくなかったようだ」

S3gencyoin

             (写真は「本堂落慶記念誌」より引用)

 

 

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2025年1月 7日 (火)

俳人十湖讃歌 第218回 鳴門の旧知(1)

 大正七年七月二十一日、街道から東に入る裏道を抜けたところにある源長院本堂は、木の間を抜ける涼風が心地良い。田園風景に包まれているせいかもしれない。
 本堂では先程まで十湖の古希を祝う祝賀行事が開かれ、地元の老若男女二百余名の出席者で賑わっていた。
 その人並みを見送っていた和尚と十湖が境内を臨みながら、和尚がほっとした様子で十湖の顔を見る。
「翁も七十を数えましたか、そんな風には見えませんがのう」
 と和尚は剃ったばかりの頭を撫でながら、呆然としている十湖に声をかけた。
「やらねばならんことはいくらもあるので、歳の事など構ってはいれん。大体好きなことをしていると時間の経つのが早いものだ」
 十湖は揮毫された扇子で、ばたばたと胸元辺りに風を送っている。
「それに、これから富士登山への旅支度をしなければいかん。これは俳諧新聞の主催による俳人登山に参加するためだが、三日間の行程なのでさほど体には無理がない。秋には近江行脚だ。そして今年も暮れるというものじゃ。年が替われば念願の伊勢路の行脚が待っている。しかし伊勢は招きがないと行きにくいという事情もある」
「富士登山とはこの暑いのに大変なことだ。足元には十分気を付けて行ってきてくだされ。伊勢へはこれまでも何度か行っているようですが招待がないといけないというのはどんな事情がおありですかな。まして俳諧は相変わらず向うは盛んなはずでしょうに」
「伊勢は確かに俳諧が流行している。たとえ自由律の俳句が流行ってきても、江戸時代からの俳諧は風流が人を和ませる。伊勢人にとっての楽しみは変わらない。しかし一部では着実に変化してるようだ。それは時世のせいじゃ」
「自由律の俳句の横行ですかね。正岡子規の提唱した俳句は文学でなくてはいかんと云う」
 和尚は袈裟の袖をたくし上げ数珠を持った手を出しながら、持ち前の好奇心から十湖に問う。
「それだけではない。わしら俳諧宗匠のことを月並宗匠ということばで罵倒する用語として使われ始めている」
 明治二十六年、子規は新聞に「文界やつあたり」と題して旧派の宗匠が俳句愛好家を利用して、点料や入花料の収入に汲々とするばかりでその他に益はなく、近時俳句界が活況と進歩を現し始めたのは多少の学識と文才のある書生仲間の功績であって、月並宗匠連は学識も佳句も節操もないへっぽこ連であると痛罵した。
 これに対し宗匠らは彼らをして書生俳諧と軽蔑の念を込めて呼び返していた。こうした状況からして地元俳諧宗匠らが句会を開くのを自重しているようなのである。


Semisigure

 

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