カテゴリー「鷹野つぎ養女時代余話」の記事

十湖の養女となったつぎの気になる半生の一部を紹介する。

2025年7月22日 (火)

鷹野つぎの養女時代余話(15)最終回

 大正十四年喜寿の賀莚を開かれ本年五月二十五日浜松市鴨江寺境内に銅像の除幕式を挙げ、悠々自適の余生を大撫庵に送り七月十日七十八歳の生涯をとじた。
 隨處から手渡された葬儀の時に送る言葉の原稿を一読した石倉は、以上をもって十湖の全貌を伝えたとは思えなかった。
 ただ翁の報徳仕方の足跡を辿ってみたに過ぎないと感じていた。
 境内の片隅で参列者の行列を眺めていると、十湖の晩年は俳人として門に集う者の数も増し、決して失意のものではなかったと確信していた。
「石倉さんお久しぶりです。よくぞ遠くからお越しくだされ義父も喜んでいることでしょう」
 そう云って近づいてきた初老の男性がいた。
「・・・・」
 石倉はこの男に見覚えがない。
「私ですよ。鷹野です。鷹野弥三郎です。今では記者ではなくて小説家に足を突っ込んでいますがね」
「思い出しました。つぎさんのご主人ですね。奥様のお加減はいかがですか」
 石倉は懐かしそうに言放った。
 小説家なら妻の鷹野つぎのほうが有名である。
 だが義理の父の葬式だというのに姿が見えないのが気になった。
「それが今日は私だけが参りまして、つぎは子供の具合が悪く、家を離れることができないのです」
「さぞお困りでしょうね。葬儀が済めばただちにトンボ返りですか」
「そうなります。夜行列車の時刻を今確認しようと思っていたのです」
 鷹野は家のことが心配らしく、懐中時計を取出しては落ち着かない様子であった。
「鷹野さん、私は今十湖翁の人生を振り返って、記事にして紹介しようと考えていたところですが、あなたの持っている十湖像の一端をご教示いただけませんか」
 石倉は鷹野に対し自らの足りない部分を示して欲しかった。
「私が翁の伝記を作り始めたきっかけは翁に対する世評に興味を持ったことでした。当時、翁のことを人為して俗物、英傑にして愚鈍、野心家にして世捨人、聖人にして小人、大欲にして無欲、剛胆にして小心などと世間ではたった一人の人間に当てはめ評しています。これは悉く矛盾だらけです。私が翁に照らしてみると奇とは思えません」
 鷹野は真剣な表情で、まるで何か得体の知れないものと対峙しているような顔つきで云った。一息すると さらに話を続けた。
「翁の行動は人の意表に出て混乱しているように見えても、その裡を透かして見ると秩序整然たるものでした。翁の英傑にして剛胆なる所以です。時に軽薄で世間の笑いものにされるときは翁の愚鈍にして俗物なる所以です。常に道徳を口にしてひそかに善行し、自庵にて俳諧を楽しむ姿は真の聖人にして雅人であることを認めるでしょう。だが酒色に嵌り財産を失いかけたり、無益なことに狂奔して喧嘩を買ってしまうことを見れば翁は確かに小人であり、むしろ狂人ともいうべきでしょう」
 鷹野は十湖を世間がどう見ているかを淡々と話す。
「なるほど世間の評価はさまざまだ。鷹野さんご自身ではどう結論付けたのですか」
 石倉は冷静に語る鷹野の十湖像を知りたかった。鷹野の次の言葉を待った。
「かつて、私が翁の伝記を作っているとき、翁にいかなる先人を崇拝するやと問うてみたことがあります」
「それは興味深い。ぜひお聞かせください」
 石倉は両手を叩き喜びを隠せなかった。どうしても聞きたいことがそこにある。
「その答えに二宮尊徳、松尾芭蕉、渡辺崋山、林子平の四名を挙げてくれました」
「四人もいたのですか。その理由はお聞きになりましたか」
「ええ、今でも覚えています。尊徳は知行合一、言行一致、道徳家にして理財家なるがゆえに、芭蕉翁はわが風流の祖にして、津々つきざる超然顔なるがゆえに、渡辺崋山は節操高く清々球のごとく汚濁に汚れず忠孝兼備の奇士なるがゆえに、林子平は憂国の士として拳々として節を守り稜々たる侠骨千古の士なるがゆえに、と、一人一人に接するように説きました」
 鷹野はまるで十湖翁がそこに居るかのようによどみなく話した。
「この四人とは翁が目指していた人物像の一端であり、十湖像そのものではありませんか」
 石倉は少し興奮気味に鷹野に迫った。
 どう考えても十湖が向かおうと努めていた性格の、四方面を語ったという風に思われた。
 この四人の特徴を一丸として併せ持つとしたら、実に他の多数の名を挙げるにも等しく感動を覚えたに違いない。
 この答えにより十湖の内面に熱望した一端は知られるものであり、その熱望をもって十湖の生涯に実践し得た報徳仕方の業績の裏打ちとしては、褒めすぎではないと思われたのである。
「石倉さん、君子不器という言葉をご存じですか。荻生徂徠によれば容器には容量という限界がありますが、君子はそのような容器ではありません。言い換えれば君子は自由にして目的に応じ様々な人を使いこなすことができる人物の意だそうです。十湖翁が奇人とかいろいろな冠で云われてきた根源は、人の使い方にも政治手腕にも定まった容器はなかったからではないですか」
 鷹野が云う君子論は十湖に繋がっている。石倉は鷹野の意見に共感し感動さえも感じた。

 

昭和十一年初夏、東京郊外にある市立サナトリウムで療養中のつぎは、開け放たれたガラス戸から入ってくる風に冷たさを覚えた。
「硝子戸を閉めて下さらない」
 つぎはベッドの傍にいた弥三郎に、肩をすぼめながらか細い声で頼んだ。
弥三郎は木製の介添え者用の丸椅子から立ち上がりながら
「義父は俳句を友にして人生を謳歌していたね。僕の人生は後悔の連続だったけど君はまだまだ生きなくっちゃ、子供のためにもね」
 弥三郎はつぎの視線の先にある凛とした花菖蒲を見つめながら、そっと硝子戸を閉めた。

 

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                (完)

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2025年7月12日 (土)

鷹野つぎの養女時代余話(14)

 弥三郎は支局長という立場でこの事件の事は新聞に書きたてていたので、十湖がどこでその記事を読むとも限らないし、豊橋方面の門人たちの中から風評として出て来るともわからない。
 十湖が後で知って怒り心頭に達しても困ると思ったからだった。
 弥三郎はお茶を一口啜り話を続けた。
 それによると垢石と風葉は豊橋の地で知った仲となった。
 垢石は仕事がなく豊橋に都落ち、一方で風葉は尾崎紅葉死後自然主義文学が流行せず郷里の半田市に戻ってきた。
 こちらも都落ちで二人は酒屋で意気投合したのか以来酒友となっていた。
 酒の上の話はろくなもんじゃない。
 自慢話もあれば嘘もある。
 意気投合した二人はある日こんな話をした。
「佐藤君、僕は女弟子が一人ほしい。女弟子兼可愛がるのを世話してくれ。君は新聞記者で諸方を歩いているので何か心当たりはないか」
「ないこともない。あんたのためなら、ひとつ当てを探してみようか」ということになった。
 垢石は名古屋支局で会った女のことを振り返っていた。
 当時、名古屋支局長であった鷹野の妻である。
 何度か出会ううちに顔見知りとなり、ある日支局へネタの探りに行っていたところ、ばったりつぎと出会った。
 つぎの美しさに垢石は酒の勢いを借りて言葉をかけようとしたら、つぎの方からこういってきたという。
「私、小説書きになりたいんです。誰か適当な師匠があったら、それに就いて小説書きをやりたい」 
 これを聞いた垢石は
「ご亭主があるのに、なかなか大変だぞ」
「亭主を捨ててもかまわない決心です」
「ノラの真似をするつもりか」
 この頃は”人形の家“が流行っていたので、そういってやったら
「そんなつもりじゃないけれども、亭主より文学の方が面白い」
「じゃ、どうしようもない。師匠を見つけてやろう」ということになった。
 垢石はこのやり取りを気にして風葉に紹介することになったという。
「実はこういう女がいる。子供が一人ある。非常な美人で、同人雑誌に載ったものを読んでみるとなかなかうまい」
 といったら、風葉は膝を乗り出した。
「ぜひ世話してくれ。弟子ということでいい。あとは俺の手腕だ」
「よかろう」
 というわけで世話をすることになったという。
 ここまでは垢石の述懐によるものだが、当時のつぎの生活状況をみればあまりにも無謀なことで到底本気でやるとは思われない。
 つぎは一歳になる子を抱え一年前にやっと籍を入れたばかり、若干二十歳を過ぎたばかりのつぎは美しい。
 しかも夫とは家出同然の形で家を離れ自由結婚をやってのけた。
 明治という時代に女性が家を捨てて自由結婚をするというのはきわめてまれなことであった。
 夫弥三郎の収入は支局長という立場で経済的にも安定し精神的にも充実した幸福の時期であったはずだ。
 垢石のいう”ノラの真似をする“という話などとは全く無縁の彼女であった。
 垢石は作り話で風葉に紹介した自らの行動が咎めたのだろうか。
 後日鷹野に逢ってこう云っている。
「実はこういうわけで、君の細君から適当な師匠を頼まれたが、小栗風葉ならいいと思うから、ひとつ弟子入りさせてみたらどうだ」
「厭だ」
 鷹野は言下に断った。どう考えても垢石の独壇場の筋書きで、垢石の日頃の行動を見れば根っからこの男を信用していない鷹野である。
 このことを新聞に書き立てた。
 ――文学者(風葉)だとか東京の新聞記者(垢石)なんていうのは碌な奴じゃない。婦女誘拐をしたがる奴だ
 これを知った垢石は怒った。彼は次の行動に出たといっている。
 ――ひっぱたいてやろうと思って、ステッキの太いのを持って鷹野の家へいったらいないんだ。夫婦で散歩に出たというからきっと夜店の方へいったんだろうと思って、僕も夜店の方へいったら、奴さんが子供を抱いて、奥さんがステッキを持って歩いてた。それが僕の姿を見ると、女房に子供を渡して代わりにステッキを受け取って、僕の方へ来るんだ。奴も悪口を書いたもんだから覚悟してしていたんだね。僕はツカツカと進んで奴の向こう臑をひっぱたいた。野郎がヨロヨロッとしたところを滅多打ちに二,三十殴りつけたら野郎伸びちゃった。それから宿屋へ帰ってしばらくしたら警察が来たよ。
「傷害罪で逮捕する。警察へ来い」
 翌日、垢石は風葉と共に警察へ出頭する。
 そこには身体中真っ白に包帯した鷹野がいた。
 包帯は既に血がいっぱい滲んでおり痛々しい。
 十湖は静かに鷹野の説明を聞いていた。
 要するに事件のきっかけは都落ちした尾崎紅葉の弟子小栗風葉が美しいつぎと近づきになろうとして、酒友の新聞記者佐藤垢石に助力を頼んだのが事の真相だったらしい。
 鷹野には十湖の顔に怒りを押し殺しているのがわかった。
 鷹野は事の真相はともかく今回の自分の軽率な行動を反省していた。
 その後の垢石の足取りはどうだったのだろうか。
 貧乏神はなおいっそう垢石に付きまとうようになり、借金取りに追い詰められて夜逃げを敢行する。
 地図を出して睨んだら四国の国が一番遠い。九州が最も遠いけど鉄道が通じている。四国にはそれがない。
 ただそれだけで豊橋の地から姿を消したのであった。
 一方、風葉は前年に豊橋へ隠棲してきていたので、亡くなるまで同地で過ごしたという。

 

 

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2025年7月 9日 (水)

鷹野つぎの養女時代余話(13)

 十湖には、他人から「貧乏神」だと云うことばが当てはまるほど金には縁がない。
 ところが、自分の周囲にもそんな神様が居座っているとは、さすがに人前には出て威張れないと思った。
 出雲の帰りには豊橋で新居を構えた鷹野一家を訪問した。
  つぎの様子を知りたかったこともあるが、それ以上に長女の顔を見るのが楽しみであった。
  一晩泊まって一家と話をしていた時、つぎの夫弥三郎の額に治りかかっていた傷の跡を発見した。
十湖は早速夫婦喧嘩でもしたのかと弥三郎に訊ねてみると、つぎが代わってその事情を説明しはじめた。
「私がいけないんです。私のひとことがこの事件を引き起こしてしまったのです。この人は何も悪くありません」
 つぎは今にも泣き出しそうな顔をして、長女を抱きながら弥三郎を庇って弁解した。
「まあまあ過ぎてしまったことだ。今更愚痴を言ったところでどうにでもなることではない。しかしその事情とやらは聞いておきたいところだな」
 十湖は金以外の事なら何とか力になれるかもしれんと事情を聞くのはやぶさかではなかった。
「それなら私が一連の経過をご説明します」
 弥三郎がこの夏に起こった出来事を話し始めた。
「この額の傷は喧嘩をしたときについたものです。どうにも相手が喧嘩慣れしていまして返り討ちに逢ったようなものです。つぎには別に害はありませんでした。それにしてもこの時は二人の貧乏神に負けたようなものです」
 弥三郎が苦笑いし十湖にお茶を注ぎながら話を続けた。
 十湖は貧乏神に負けるくらいなら、それより悲劇はない。あるのはどん底だけだと冗談を言いながら夫婦喧嘩でなくて良かったと胸をなでおろした。
「貧乏神の一人は今では売れない小説家の小栗風葉です。もう一人は酒で貧乏を招いた佐藤垢石、自称新聞記者です。私は新聞社で支局長をしていますので何かと付き合いがありました。垢石は昼間から酒を飲んで社までよく来ていましてね」
 弥三郎は付き合いとはいえ彼ら二人は仕事が欲しくてやってくるので、仕方なく話を聞いてやっているのだが、回してやるべきものはなかったという。
「小栗風葉か。こいつは聞いたことがある名だ。紅葉の門下にいたのではないか。小説こそ読んだことはないが文化人の風上にもおけんな。垢石は何者か知らん」
 十湖にはあまり縁のない名であった。
 弥三郎は興味なさそうな十湖の様子に話を続けるのをよそうと思った。
 だが十湖が喧嘩相手にも程がある、どうせやるならもっと有名人とやれと云わんばかりに言い放った。
 しかたがなく一連の経過は説明しておこうという気になった。

 

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2025年7月 6日 (日)

鷹野つぎの養女時代余話(12) つぎと十湖の初対面

 玄関先から佐乃の来客を迎え入れる甲高いが優しい言葉使いが聞こえてきた。
 十湖は奥の間に控え身支度を整えた。
 直接、つぎ本人に会うのはこの日が初めてである。
 つぎの顔色は白く輝いているようだ。
 つぎは、養父に会ったら何から話せば良いのか迷っていたが
「はじめてお目にかかります。この度はいろいろご迷惑をかけてすみませんでした」
 頭をぺこっと下げた仕草があどけなかった。
 そのとき生後四ヶ月に満たない赤子の顔がつぎの懐からみえた。
「 長男の正弥です。一月に生まれました。おかげさまで健やかに育っています」
 十湖は幼子の顔を覗き込み、自分の指をその頬に当て
「そうか良い子だ。可愛いのう」
 厳めしい十湖の顔が、何時しか目尻は下がり好々爺になっていた。
「奇人ではなかった」
 と胸を撫で下ろすつぎだった。はじめて十湖の顔を見た時は義父が師父という感じで少し怖かったと後に自著で回想しているが、話してみると人懐っこく十分理解しあえる義父だとしだいに心を許していった。
 妻の左乃は、傍らで二人のやりとりを楽しんでいるようにも思えた。
 夕餉は積もる話をするつぎであったが、子供が生まれてからは父親の癇癪も次第に和らいできていると報告し、これまで以上に両親には償なわないと申し訳がないとも言っていた。
 父は浜松町下垂(現在の尾張町)に住み岸弥助といい、商家の主で町会議員を務める浜松の名士にも数えられていた。
 昨年は十湖の計らいで養女にしてもらったつぎだったが、父親の同意が得られず家出同然、鷹野と名古屋へ旅立ってしまった。 
 その間の実家の様子をつぎは自分を訪ねてきた義兄から聞いていた。
それによると父親の怒りはとても収まる気配はなく鷹野の腹をかっさばいてやると豪語していたという。
 ところが今年の一 月長男が生まれた事で事態が急変してきた。
父親から生まれた子供のためにと産着やお七夜の重ねや襦袢など一揃いの着替えを送ってきたのだった。
 以後、養女つぎは、後に新聞記者鷹野弥三郎と結婚し、島崎藤村に師事し女流文学者として大成していくのである。


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2025年6月28日 (土)

鷹野つぎの養女時代余話(11)

 昭和十一年東京の市立サナトリウムの病室では、鷹野弥三郎が妻つぎを見舞いし、お互いの過去の出来事を紡いでいた。
「僕は君に出会う前は義父のところによく足を運んでいたが、そのたびに君との出会いが何度となくあったね」
 弥三郎は、つぎの顔色を見ながら話しだした。
 つぎは未だに鷹野との出会いが結婚に結び付くとは思っていなかったらしい。
 結婚に至るその年、弥三郎は最後の取材で十湖宅を訪問することになっていた。
「最初から俳諧の手法を訊ねようと意図しながらの訪問だったが、義父には見抜かれてしまい、挙句に四、五日も庵に滞在してしまったよ。おかげで句会にまで顔をだすことができたのさ」
「私は俳句のことは知らなかったし興味がなかったわ。でもあなたにとっては貴重な体験だったのね」
 再び弥三郎は当時の模様を反芻していた。
 新朝報なる新聞に連日三回執筆してきた鷹野は、その一節に「十湖をして平凡なる眼より見るときはさほど孝者たり、忠者たりと思わず、されど十湖はりっぱなる孝子にしてまた忠義の国民なり、その勤王心厚く我がままにして真心一途の忠義を貫き曲げない人物である」と評した。
 このとき、出版社からの依頼は「社会の風潮は日々文明を取り入れて物質的実利主義へと移り変わっていく中にあって元禄時代から続く趣味の延長上の平民文学ともいえる俳句の世界に正岡子規らによる新派集団が生まれたという今日、彼らの蕉風いわゆる月並み派を排斥しようとする動きが起こったにもかかわらず、今日でもひとり純趣味の月並みを持続して少しでも動揺することなく、平然として古人の遺作を脱せざる純月並みの俳人たちがいるので取材せよ」とのことだった。その対象者の中に十湖の名があった。

 草庵にも桜が散り始め、代わって牡丹の花が咲き誇っている。
   草庵を通りかかる百姓たちが、挨拶がてら垣根越しに邸内を覗き込み、
「珍しいのう、十湖様が家の中の片づけをしているなんて、こりゃ午後は雨ずら」
「こりゃ早くに用を足さんといかんのお。草取りは時間がかかりゃ」
とニヤニヤしながら冷やかし半分で話していく。
 十湖は開け放した邸内で揮毫用の筆を洗ったり、散らかった半切の書を机の片隅に畳んで整理している。自慢の白髭をなびかせ、下がりかけた丸いめがねをあげながらせっせと手が動いていく。時折考え事でもしているのか呆然と立ち止まり作業の手が止まった。
 妻佐乃は廊下で雑巾の水を絞っているが、十湖の仕草を気にかけていた。しかも不断なら弟子達の声でにぎわっている草庵なのだが、この日は春の温かい日差しが差し込みながらも人影が無い。
 皆で服織神社を通り天竜川河畔まで吟行しているようだ。十湖は朝の陽が玄関の上に差し掛かった頃、着替えを始めた。紋付に前袴を穿いて、白足袋に変えた。
 もうじき、養女つぎが長男を抱いて来るはずだった。
 身支度を終えた十湖の動きもしだいに忙しなくなってきた。十湖は先日、つぎ宛に手紙で草庵の様子を書き記し道順を案内しておいた。豊橋から来るつぎにとって子連れでは遠い道のりに違いないが、今日は穏やかな天気になってよかったと十湖は天に感謝した。
 つぎの結婚相手鷹野弥三郎は、明治三十九年十湖との縁で長野佐久新報をやめ、遠江新聞の記者となり浜松へ移り住んだ。
 翌年、新聞社で「十湖伝」を編集することになり、その編集主任に抜擢され十湖の取材でよく中善地の大蕪庵を訪れていた。
 文学好きの好青年でこのとき二十八歳、市内で文学同好会を作り活動もしていた。
 一方、つぎは少女時代から読書が好きで、兄から薦められた雑誌「少年」を愛読し、文芸雑誌にも傾倒していた。つぎがこの同好会に入ったのをきっかけに記者の鷹野弥三郎と出会った。
 弥三郎は身長百七十一センチの当時としては珍しく長身でしかも好男子、住んでいたところも同じ町内であった。
 やがてふたりの交際が深まり両親に結婚を申し出るが、つぎの父親岸弥助の猛反対を受け弥三郎とともに家出同然浜松を去った、明治四十二年、岸つぎ二十歳のときである。
 その後も父親の反対行動は留まる兆し無かった。
 弥三郎は困り果て、しかたなく十湖に相談をかけた。結局、十湖の養女とすることで入籍をすることができたのである。
 明治四十三年弥三郎が名古屋新聞豊橋支局長になったため、豊橋に移り住み、翌年には長男誕生を迎えることになった。
 十湖は弥三郎が取材で家へたずねてきたときに結婚までの一連の経過を聞いており、この年の暮れには長野の弥三郎の父親にさりげなく縁談のことを手紙で伝えていたのだった。あとはつぎの両親の理解だけである。
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2025年6月21日 (土)

鷹野つぎの養女時代余話(10)

 明治末期、長野県佐久地方には鉄道路線が整備されておらず陸の孤島であった。
一口に松原湖までといっても、そう容易にいけるものではない。
 明治十九年(一八八六年)には信越線(現在のしなの鉄道)が直江津~軽井沢間に開通し小諸に駅が設けられ、明治三十五年(一九〇二年)に篠ノ井線、その後明治四十五年(一九一二年)には中央線が全通しており、佐久地方だけが鉄道から取り残された地区であった。
 当時の長野県では蚕糸業が発展しており、鉄道敷設に伴い地域産業は発展し、鉄道は蚕糸輸送で大きな収益を上げていた。
佐久地方でも養蚕・製糸業が盛んであったが、鉄道網がない為に付随する他産業の発展は望めなかった。
 又、豊富な森林資源も輸送手段がない為に手付かずのまま。
地域民は鉄道敷設による地域・産業開発を切望していた。
 鉄道業も他地区の実績を考慮すれば十分に採算が見込まれ、更に千曲川の豊富な水量を
利用した発電所建設計画があり、鉄道敷設は必要不可欠と考えられていた。だがこの時期は軽便もなかった。
 十湖は小諸駅で下車し馬車で湖畔の鷹野宅に向かおうとするが、列車の旅は常に酒が付きもの。一人旅では酒の量が増してしまった。
 馬車に乗ろうとした時には既に呂律が回らず、歩行もままならず、車夫に何度も行き先を問われた。
 やっとのことで乗車した十湖は上機嫌だ。
「旦那、松原湖の高野だなんていわれても、いくらもありますぜ。一体どこのたかのさんですかい」
 車夫はとがった口調で言うと
「そんなことは知ったことか。いや、今日列車で来たばかりだから、えーと」
 十湖はなんとか応えようとするが、名前が思い出せない。
「今朝の列車で来たんですかい。それなら憶えているはずだ」
 車夫はぴしゃりと言い張る。
「そうだった。今朝だ。今朝三郎だ」
 十湖は思い出したことが嬉しくて大笑いして手を叩いた。
「豊里の鷹野今朝三郎様ですか。村でも一番立派なお邸です。よしわかりました」
 だが道のりは十里以上はあるようだ。車夫が馬に鞭を入れると一頭立ての馬車は土煙をあげて走り出した。
「旦那、昼間からそんなに酒に酔ってると追い返されちまいますぜ。川の水でもかぶって酔いを醒ましたほうがいいんじゃないですか。」
 車夫は気を遣って十湖に声をかけた。
 馬車が動き出すと十湖は懐から飲み残しの酒を取り出し、ぐびぐびと飲み始めた。
 それが空けば、鞄から新しい洋酒の瓶を取り出し、着くまで舐めている。
 松原湖畔が見えてくる頃には、既に鼾を掻いて寝てしまっていた。
 六月だというのに湖畔に吹く風は爽やかで、十湖が寝入るのは無理もなかった。
この地方では梅雨はあまり関係がないようだ。
「旦那、そろそろ着きますので起きて下さい」
 車夫は車の両輪の音に負けないような大きな声をかけた。
「着いたか」
 十湖は、寝入りばなだったようで眼は虚ろだ。
「正面に門のある邸がそうです。この地方の資産家ですから、失礼のないようにお訪ねになるほうが・・・旦那まだ酔っているんですかい」
 車夫の気使いはなかなかである。
「馬車をこの辺に待たせておきますから、用が済んだら合図してください」
 十湖はひとまず旅行鞄は馬車の中に置いて、一人歩いて鷹野邸の門に向かう。
 なかなか立派な門構えである。
 十湖の住む中善地の村にはこんなでかい家はない。
 門をくぐって庭に入り声をかけた。
 中から面高だが気品のある表情をした婦人がニコニコしながら出てきた。
「遠州浜松から来た松島十湖です。ご主人にお会いしたい」
 十湖は酒に酔っているのを悟られぬよう、毅然とした態度で訪問の理由を述べ面会を求めた
「遠いところをわざわざお越しいただき、あいにくですが主人今朝三郎は不在でございます」
 丁重に婦人は挨拶をした。そのうえで一言添えた。
「たとえどんな御用でも、酒に酔って訪ねて来るなど言語道断です。主人には訪ねてきたことを伝えますので、本日はお引き取りください」
 あの気品のある婦人の口から出た言葉とは思えないほど厳しい叱責だった。
十湖は一気に血の気が失せ、酔いが醒めていくようだった。
 肩を落として馬車に戻る。
「旦那、言ったとおりでしょう。まあ仕方がないや、今度はゆっくり寝ていって下さい」
 車夫に慰められはしたが、さて今晩はこのまま帰庵できるはずもなし、車上で思案に暮れる十湖であった。
 懐から酒瓶を取り出し残りの酒を一気に飲み干した。
馬車は再び元来た方向へ走り去って行った。

 

So09_20250619144201                         (瀬在欽采:画)

 

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2025年6月19日 (木)

鷹野つぎの養女時代余話(9)

 三年前の明治三十五年六月、十湖が上京した折、神田区表神保町の啓発社社長高橋金作のところに厄介になっていた。
 この出版社の社長とは俳句の掲載で知り合った仲で、一時、女学生雑誌「姫ゆり」その他の文学書を発行して有名であった。
 ここに十湖の門弟で十五歳になったばかりの柏葉が務めていた。
 本名は鷹野弥三郎、既に俳号がついており十湖に勧められ俳句の会に入っていた。
 長野方面は俳句が盛んで、弥三郎の父も熱心でその影響があったらしい。
 弥三郎がここで働いているのには訳があった。
 弥三郎の父親から息子が教員になりたいというので働きながら学ばせたい。
 ついては働き口を紹介してくれとの頼みからだった。
 後に浜松で十湖の伝記を書くことになるが、十湖とは長い付き合いになっていくことをこのときはまだ知らない。
 高橋社長のところで数日泊っていたが、ある朝十湖は帰り支度を整えた。
「高橋君、せっかくの機会だから、帰りは長野方面に向かい弥三郎の実家に立ち寄っていこうと思うが」
「ここからなら、そう遠くではないから気をつけてお帰りください。家は旧家で大きいから近くまで行けばわかるはずです」
 高橋社長は快く挨拶したが、十湖との用はとっくに済んでいた。やっと帰ってくれるので安どした。
 十湖は世話をしてくれた御礼を言いながら、さっさと信越本線に乗り込んだ。
 軽井沢から碓氷峠を越え、信州佐久を通り松原湖を目指そうというつもりだった。
 松原湖畔には弥三郎の実家、豪農の鷹野今朝三郎宅に立寄り、自ら挨拶をして来ようと思っていた。
 近く信州行脚を計画していたためであった。
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(鷹野弥三郎が編集に関わった冊子)

 

 

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2025年6月15日 (日)

鷹野つぎの養女時代余話(8)

  明治三十八年六月十六日次男藤吉の戦死から一年近くが経とうとしていた。
 昨年の初めは町中が日露戦争の戦勝に湧き、次男藤吉(俳号友月)の出征も祝った。
 だがそれは長続きせず、夏の終わりには藤吉戦死の悲報が届いた。
 十湖は衝撃を受け、戦争の無慈悲に腹が立って、その年は藤吉の供養をするのが精一杯で俳句どころではなかった。
 年明けて欽采から手紙が届いたのは、落ち込んでいるであろう十湖を慰めるがためだったかもしれない。
 この時、欽采二十七歳、年の頃なら次男藤吉と同じである。
 今、その招待に応えるべきか迷っていたのだった。
 同年九月十日 朝顔を詠んだ句を残して大木隨處、柳園成佳、冬至庵閑里ら三人を伴い信州・信濃地方へ向けて旅立った。
 今回は言うまでもなく吟行行脚である。
 長野方面をめざし招待してくれた俳人仲間のところに連泊し、そこを拠点に周辺地域の吟行を重ねるつもりだった。
 夜は人の集まりそうな旅館や俳人宅で連歌の会や句会を開き、地方の俳人たちとの交流を重ね、弟子を増やしていこうとの野心もあった。
 とかく、これまでの旅は浮名に流され、酒をしたたか飲んでは奇行ぶりを発揮し、周囲の者を驚かせることが多々あった十湖だが、これでは戦死した藤吉こと友月に面目が立たぬ、大いに発句に専念しようと思っていた。

     庵の月心信濃に通ふなり 
  
 信州へ向かう十湖一行は、名古屋で中央本線に乗り換えた。
 目指すは長野の篠ノ井駅である。
 駅で買ったちくわをつまみに、冷酒を飲みながら車窓風景を楽しんでいた。
 やがて汽車が姥捨に差しかかろうとした頃には、十湖の頭がうなだれ居眠りを始めていた。
「いつの間にか師匠が寝てしまいましたね。朝が早かったから」
 十湖の向かいの席に座っていた一番若い弟子の閑里が、先輩格の隨處に向かって云った。
「そうだなあ。酒はそんなに飲んでいないが、これまでの家業の苦労も一息ついてほっとしたのだろう」
 隨處は、十湖の日ごろの多忙を慰めるかのように言った。
「次男の友月君は、戦争の犠牲者だよ。生きていればきっとここに居たかも知れない。師匠は友月の供養で忙しかっただろうと」
 友月と仲のよかった成佳が、口を挟んだ。
 十湖にとってこの道は三年前に一度来ているはずだった。
 そのそのことは誰にも言っていなかった。
 自分の心の中に隠しておきたい苦い体験だったからである。

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2025年6月10日 (火)

鷹野つぎの養女時代余話(7)

 五月、バルチック艦隊の全滅で各地では戦勝提灯行列が行われた。
 連日の新聞はこの記事で埋まっていた。
 浜松駅周辺では笹竹に紅提灯を付け、頭上に振りかざして戦勝を祝う市民らが集まっていた。
 その光景を十湖は句に詠んだ。
  
     提灯にてらす世界や夏祭

 このころ日本軍が九連城を占領すると、浜松地方の学校では祝賀行事が組まれ、学生も参加した。
 戦地の藤吉は八月十八日からは遼陽に向かって前進し、首山堡塁に対して攻撃を開始した。
 日本軍の死傷者二万三千余人をだしたが、ロシア軍が退却を開始。九月四日日本軍が遼陽を占領した。
 十湖の元でも戦勝に沸いていた。
「遼陽が陥落したか。遼陽占領祝賀祭だ。早速連歌会の開催支度だ」
 十湖は機嫌良く囃し立てていた。
 感情の高ぶりで句は考えずとも自然に口から吟じていた。

     蜻蛉や百万の蚊をとり尽くす

 この最中の八月三十一日、登之助がロシア軍との大激戦を交え、敵弾に当たり若い命を落としたことを知らない。
 九月四日になっても十湖のもとには 訃報は届いていなかった。
 明治三十七年八月三十一日十湖は五十六歳になっていた。その次男藤吉は二十七歳という若さの戦死であった。
 地元の浜松新聞は登之助葬儀前の状況を記事として掲載するとともに、同日鈴木藤三郎氏と十湖氏と題して次のように報じていた。
 ――東京深川小名木川の日本精製糖会社社長にして衆議院議員なる鈴木藤三郎氏と松島十湖氏途は眤近の交わりある事なるが今度近藤曹長の戦死を聞きて先ず取敢えず香典として金五円を送付し尚葬儀の事については金一円以上と十湖との関係上巨額なる寄付を為す

 いうまでもなく十湖と鈴木藤三郎との関係は盟友の何物でもない。
 十湖の悲しみに対し藤三郎ができる最大の弔意を示したものだったろう。
 十湖にとってどんなに慰められたことか。
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2025年6月 5日 (木)

鷹野つぎの養女時代余話(6)

 文中の女学校は浜松町立尋常高等女学校のことで、現在の浜松市立高等学校である。
 つぎ等女学生は二月三月の寒い日も、戦地に行く兵隊さんを思うと寒いなどとはいえず、自然と襟巻きも手袋も取り去って見送りをしたという。       
 同じころ十湖は冬日が差し込む縁側で、ぼんやりと庭の落葉した樹々を眺めていた。
「藤吉から手紙が届きましたよ」
 十湖の妻佐乃がうれしそうに郵便を手にしながら廊下を走ってくる。
 十湖は佐乃が差し出した手紙の封を切り、急いで取り出し読み始めると妻に云った。
「そうか。藤吉の奴元気にやっておるか。満州へ出征し遼東で激戦に参加とある」
「激戦ですか。あぶないですね。無事でよかったのはいいですけど」
「そればかりではない。台湾の戦いでは功労賞を貰ったと書いてある」
 佐乃は別段嬉しそうな顔はせず耳を傾けて、手紙を読み聞かせる十湖を見つめている。
「手紙の最後に俳句が添えられているぞ。やっぱりわが子だ。野戦でも風流の道は忘れてはいない」
「どんな句ですか」
「三句ある。
  結ばれぬ露営に夢や時鳥   
  血を払ふ太刀の光の寒さかな  
  いさましう我もちりたし白牡丹             
 少しばかり勇ましい句だ。軍人らしい一面も忘れてはいないようだ。無理をしなければいいが」
「そんなに死に急がなくても、早く生きて戻ってくればいいのに」
 佐乃は十湖の側に寄り添い、手紙を覗き見しながら小声で言った。
「いや軍人は常に生死を彷徨っている。俳句が奴の慰めになっているのだろう」
 いつもなら大きな声でわめき散らすところだが、心なしか神妙な顔つきをして穏やかな声の十湖であった。
次男藤吉は十湖自慢の子供であった。
 小さい頃から俳句に興じ、めきめきと頭角を現した。
 十湖が引佐麁玉郡長として赴任中の明治十八年のこと、旧気賀の領主徳川家の旗本近藤家に子供がなかったため嗣子がなく、家が断絶しそうだという話を聞き、思案の末に養子として藤吉が近藤登之助を世襲した。
 藤吉は俳人の子として育っていたため俳句にも精通し、のちに四時庵友月と号し俳句を作っていた。すでに近藤家の養子に相応しい文化的素養を身に付けた自慢の子であった。
 だが悲しいことに、日本は戦争へと突入していく時代であった。
 明治三十年、藤吉は二十一歳で軍人に志願し、翌年には歩兵二等軍曹となり静岡第三十四連隊付けとなった。
浜松駅が出征兵士で賑っている頃には既に満州の地へ向かっていた。
 



 


 


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