路傍の花束
今週からNHKの朝ドラが新しく始まった。
遠州浜松が舞台とあってどうしても見ておきたい。見てしまった。
主題歌は宇多田ヒカルの「花束を君に」、ゆったりしていて程よいさわやかさがよい。
これからの物語の展開が楽しみである。
ところで花束で思い出したのが先日の公園散歩中のこと。
散策コースの脇に置かれた花束の存在である。誰かの忘れものなのか、それとも捨てて行ったのか。
忘れていったなら戻って取りに来れば済むはずである。
いわんや捨てていくなら、なぜここまで持ってこなければならないのか。
本来、花束というものは愛おしい人に贈るものである。
置いていったなら森の住人に対してということになるはずだ。まさかイノシシや小鳥というのではあるまいし、贈るなら人が対象であるはずである。
想像はいくらでも膨らんでいく。
たとえば交通事故の場合、その路傍には誰とも知れぬ手で小さい塚石が置かれ、往来の住民が花を供えたり、お経をとなえる姿も見かけることがある。
だが今回は路傍でも公園内である。
「交通事故はあり得ない。だとすれば行きずり殺人?事件があったことは記憶にない」
「ならば行き倒れか?散策中に身体に異常が生じたとか」
ともかくも、この花束をめぐる想像はネガティブの方向へと向かってしまう。
あの時、手を合わせておくべきだったかと。
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