カテゴリー「読書」の記事

2021.04.19

「素人寫眞」百閒の言い分

 最近カメラを新調したところ、どうしても戸外で撮りたいという思いが高まった。
 だがコロナ禍でもあり、外が雨ときてはあきらめて読書に変更した。
 手にしたのは愛読する内田百閒の随筆だ。
 畳にゴロリと横になりページを繰っていると、こんなタイトルの一文が現れた。
「寫眞にうつるという気持ちになっていないところを手早く写すというのは、写す側からいえば一つの手柄なのであろうと思うけど、写される方では愉快ではない。」
「一体にそういうところへ持ち込んで来る写真機は、気っと並外れた優秀な機械であって、写真を写す人にはその点も自慢なのであろうと想像するが、学生や若い人ならとにかく、もう相当な分別のありそうな年配の人までが、わざわざ肩から皮の紐で写真機をぶら下げて、人前に出て来る料簡は馬鹿馬鹿しい。」
「近年の流行で、そういう人が方々にいるから、人の集まる所へ出ると油断がならぬような気がする。」

 以上、百閒の言い分はよく理解できるし、自分も馬鹿馬鹿しいといわれる対象の範囲なのだと自問自答した一節であった。
 昭和13年6月号「朝日カメラ」に載ったらしいが、2020年7月号から休刊しており淋しい限りである。

 定期購読中の「日本カメラ」も2021年5月号をもって休刊すると知らせがあった。
 百閒だったらこの事態を何というだろうか。
 店主としては、ただただ残念の一言である。


Gurikomini                      (グリコのおまけ)

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2019.12.19

老いてはカメラにしたがえ

 老いては子に従えとか、かわいい子には旅をさせよなんて昔から言われている。
 そろそろ自分も老いの境地へと入っていくのかと思うと情けないが、孫たち(子)の扱いには少しばかり同情するところもある。
 近ごろ、好んで見るわけでもないが、かつて見たテレビ番組が再放送されることが多くなっている。
「この番組は絶対見ているはずだから再放送なら見る必要はない。」
 と思ってタイトルをみると、やはり記憶にない作品だと納得し見ることがある。
 ところが番組が結末まで達したとき「ああ思い出した。これは前に見たぞ」ということがよくあり、見る必要がなかったのだ。
 最近、この傾向が読書にも現れてきた。
 図書館で好きな作家のエッセイを借りて来るのだが、ブックカバーのイラストを見る限り初めて手にする本だと確認する。
 だが、掲載されたグラビアを見て、俄かに記憶が戻るのである。
「ああ、これは一度読んだことがあった」
 無駄な時間を過ごしてしまったと後悔し反省しきりとなる。
 記憶喪失というのにはかなり大げさだが、認知症とも違うし、単なる物忘れでしかないはずだ。
 気が付くうちはまだ健康で、健全な精神を持ち合わしていると自分に言い聞かせている。
 やっぱり老いては子ではなくカメラにしたがい、好きな写真を撮っていることが一番性に合っているようである。
 Oitara

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2019.02.02

秋葉街道・天竜川 ひとり歩きの旅(読後感)

 身近な地域が書かれているのは嬉しいもので、興味深く読むことができたお勧めの一冊である。
 本書は天竜川の上流に住む作者が定年後、体力への挑戦を兼ね9日間という日程で天竜川の上流から秋葉山をめぐり、天竜川の河口を目指した日記風の紀行文である。
 歩いた距離は180㎞に及ぶひとり歩きの旅で、1日の終わりにその日の歩数が記されているのが健康のバロメーターなのか。
 浜松人としては珍しいコースではないが、著者のゆく先々での珍道中は身近な地域紹介冊子としても楽しめる。
 文章に添えられた写真は見慣れた風景でも、著者が一人行く姿を思うと妙に同情することもあり、最終日にはハプニングの連続で、大真面目に悪戦苦闘する様子は読む側に笑いを誘う。
 少々辛口の批評ではあるが、中身は別段これといってドラマがあるわけでなし、淡々と目的地へと向かっていくだけのことだが著者にとっては未知との遭遇、感動の体験だったに違いない。
 まあ「よう歩いたなあ。お疲れ様」である。
 それにしても、著者小林さんが天竜川の河口に達したときの達成感は、読者にも伝わってきた。

   
Akihahon
「秋葉街道・天竜川 ひとり歩きの旅]
   著者:小林千展  出版社:ほうずき書籍 2018/6/11発行

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2018.07.29

自由研究

 先日のひょうたん展の見学は、それなりに行った甲斐があったというものだった。
 その帰り際、地元の商品の販売所を通過するとき、ふと虫籠があるのを見つけた。
 鈴虫の幼虫が何匹か入っている。
 孫の土産にちょうどいいとすかさず購入した。
 が、育て方の書いた手引き書なるものは何も付いていない。
 しかも、えさも売っていない。
 既に虫籠にセットされているので当面は間に合うのだが、今後どう育てればいいのか。
 レジのおばさんに訊ねてみたが、いっこうに拉致が明かない。
 その夜からネットで検索し、一応の育て方を知る。
 知れば知るほど興味が湧いてくる。
 じいちゃんの自由研究の始まりだ。
 …夜明けは近い!

Musikago01

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2018.07.21

至福の時間

 まったく、この数日はうだる暑さでまいってしまった。
 戸外へ出て動けば汗が噴き出すし、室内ではエアコンなしでは過ごせない。
 早朝ならいいだろうと家庭菜園へ行っても、陽が上がる頃には首回りが汗まみれだ。
 こんな日がいつまで続くだろうか。
 しかし、ボヤキはともかく冷房の効いた室内での午後の昼寝は、なんと極楽なのか。
 噴水から滴る冷水を想いながら眠りに入る。
 15分後、手に持っていたはずの文庫本が、床に落ちた音で目を覚ます。
 これが今日の至福の時間だ。
 ところで、何の本を読んでいたのかって?
 司馬遼太郎氏の「花神」に登場するシーボルトの娘イネの動向が気になるところでもある。

Funsui
(マインシュロスの庭園にて)


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2018.02.11

ミニコミ紙に登場?・・・中日写協浜松支部の場合

 既に中日写真協会浜松支部は総会を終え、新たな活動を始めたばかりだが、先日、地域のミニコミ紙に当支部が紹介され、会員一同気分をよくしているところである。
 寫眞堂店主もこの写真の中に加えられている。
 趣味とはいえ、こうして紹介されると少しは社会のために役立っているのかとその気になってしまう。
 考えてみると思い当たる節がないわけでもない。
 写真展はともかく、新聞社が企画発行する下記の小冊子の表紙を飾っているのが支部会員の作品である。
 これによって、新聞の読者数の増加と日頃知られない情報を提供することにも役立っているなら、れっきとした社会貢献になるのではと思うのである。
 店主も過去に数少ないが掲載させていただいたことがあった。(下記冊子の表紙)
 写真趣味もまんざら一人で楽しむものとばかりは言えないようである。

Syakyo



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2017.09.23

曼珠沙華点描

 街道から一歩入れば静かな住宅地そして田畑が広がっている。
 その田んぼの畦や川縁には、時期を違わず彼岸を告知するかのように、曼珠沙華が咲き乱れる。
 地域差があるかもしれないが、少なくとも今年は正確だ。
 街道の菓子店には、おはぎを求めて客の出入りが多くなった。
 そんな様子を垣間見て妻が店に跳んで行った。
 結果はアウト、品切れ残念!
 そこの店でなければならない理由はない。
 墓に行く途中のショッピングセンターで買えばいいだけことだ。
 この場面で、ふとどこかで何かが似ているところを思いつく。
 吉田知子の「お供え」今年の春読んだ小説だ。
 この本の表装が曼珠沙華(彼岸花)だったことを。
  
Manjyusyage02
 


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2017.04.25

「月並み寫眞堂ミニ」へようこそ

 あらためまして、「月並み寫眞堂」へご訪問ありがとうございます。
 当ブログは既にご案内のように「PHOTO ROMANCE」から改名いたしました。
 ブログの内容は言うまでもなく、月並み写真家的こころの日日譚です。
 カメラの前で眼にした光景、耳にした情景など、日々に雑感・雑文そして写真で綴ります。
 思いつくままの平々凡々な月並み写真のエッセイをお楽しみください。

  今日も新緑が美しいですね!
Sinryoku(天竜川河川敷)

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2017.04.24

ブログ名の変更について

 突然ですが、この度ブログ名を「月並み寫眞堂ミニ」と変更いたしました。
 元「PHOTO ROMANCE」で10年以上開設してきましたので愛着はありますが、さすがに時代の流れには逆らえません。
 ウェブ上には同名が右往左往し、影が薄い存在になってしまいました。
 既にホームページも開設していましたので統合を思いついたのですが、ブログが消えてしまうのが惜しく寂しいとの思いから、何とか両者を生かす手段としてホームページの支店扱いの「ミニ」としました。
 今後ともどちらもご贔屓にしていただければ幸いです。
 元「PHOTO ROMANCE」改め新ブログ名「月並み寫眞堂ミニ」 
 ホームページ「月並み寫眞堂Pic_b027


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2016.10.07

木喰撮影の思い「木喰原田康次写真集」から

  木喰上人の魅力を過去3回にわたり記してきた。
 その動機は言うまでもなく木喰を撮ることにあった。導いてくれたのは浜松の写真家故原田康次氏の「木喰原田康次写真集」である。ショウ―ズカばばあを撮ることから始まった。
 原田氏のことは前述に譲り、ここでは木喰上人の魅力の原点を追記してみたい。
 まず木喰が木喰である戒律とはである。
 木喰戒とは火を通したものや五穀を断つことをいい、木喰上人はこの修験道を成し遂げてきたのである。
 それゆえ長命であったとの理由にしたいところだが、上人が遺してきたものからは、それにとらわれない自由な生き方が見てとれる。
遺物の一つ和歌である。
 
 めでたいの さかなで飲めば 良けれども 飲まれて後は つまらざりけり
 殺生して まだ食い足らぬ 握り飯 食いつくしても 悟れざりけり

 まさに木喰の自由な心境を歌っていて和歌を見る限り戒律を必要としていないようだ。
 日本回国において仏を彫り、自由に食べ、人と交わることこそ長命の秘訣であったのではないだろうか。
 さて、いつの間にか原田氏の写真集から、木喰上人の生き様まで足を突っ込んでしまったようだ。
 写真を撮るという原田氏の行為は同様の思いがあったことを知る。
 一方、同時代に写真家土門拳は「古寺巡礼」で多くの仏、菩薩を撮っている。
 彼の撮った写真には菩薩の微笑み、菩薩の優しさが写しこまれていた。土門は見えないものを写真で表現し、ここに写真家土門拳の真髄があった。原田氏もこれに倣って木喰撮影にのめって行ったのだろうか。
  だが、それは根本的に違っていた。
 木喰仏は最初から笑みを浮かべて彫られていたのである。
 そのまま撮れば十分であった。しかし原田氏は仏に魅せられたように撮り続ける。
 シャッターを切りながら土門拳に近づきたい一心ではなかったか。
  ほんのつかの間、原田氏の撮った木喰仏に接してみて、私もそうありたいと思った。Mokujikiharada



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