カテゴリー「木喰仏」の記事

2022.10.10

そばの花と木喰上人の歌

 今年もそばの花が満開である。
 かつては荒れ地対策としてそばを作るところもあって、そう珍しい光景ではなくなった。
 それに輪をかけて当時のテレビ番組みの影響もあり市内のあちこちの空き地に個人で育てる方が目立っていた。
 だが、ここ最近はその耕作場所が住宅に変わり、はたまた空き地と化しているところもある。
 作る方の高齢化もあるのかと思うが、私はなんとか10坪程度の畑でそばの栽培は続いている。
 家庭菜園のため種まき時期が遅くなり、どうしても苗の背丈が低くなってきている。
 それでも菜園近くを散歩する人には眼の保養となっているかもしれない。
 以前、木喰上人のことに関心があって、その故郷ともいえる場所を訪問したことがある。
 山間にそばの栽培をしている場所があり、まさに花の真っ盛りであった。
 その時に思い出したのが「盛(森)がよければ二八ソバ・・・」木喰上人は日本を遍歴中にそばを対象に和歌も残している。
「心願歌集」の遠州森、虫生で詠まれた八十八首の中にこんな歌があった。

  けんどんや そバによるのも からみかな
    もりがヨケレバ ニ八十六

  木喰上人も遠州森町でのそばを食べたのかと思うと、一層身近な人物に感じられる。

Soba20221

Tukitosoba
(我が家のそばと満月)

 

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2016.10.07

木喰撮影の思い「木喰原田康次写真集」から

  木喰上人の魅力を過去3回にわたり記してきた。
 その動機は言うまでもなく木喰を撮ることにあった。導いてくれたのは浜松の写真家故原田康次氏の「木喰原田康次写真集」である。ショウ―ズカばばあを撮ることから始まった。
 原田氏のことは前述に譲り、ここでは木喰上人の魅力の原点を追記してみたい。
 まず木喰が木喰である戒律とはである。
 木喰戒とは火を通したものや五穀を断つことをいい、木喰上人はこの修験道を成し遂げてきたのである。
 それゆえ長命であったとの理由にしたいところだが、上人が遺してきたものからは、それにとらわれない自由な生き方が見てとれる。
遺物の一つ和歌である。
 
 めでたいの さかなで飲めば 良けれども 飲まれて後は つまらざりけり
 殺生して まだ食い足らぬ 握り飯 食いつくしても 悟れざりけり

 まさに木喰の自由な心境を歌っていて和歌を見る限り戒律を必要としていないようだ。
 日本回国において仏を彫り、自由に食べ、人と交わることこそ長命の秘訣であったのではないだろうか。
 さて、いつの間にか原田氏の写真集から、木喰上人の生き様まで足を突っ込んでしまったようだ。
 写真を撮るという原田氏の行為は同様の思いがあったことを知る。
 一方、同時代に写真家土門拳は「古寺巡礼」で多くの仏、菩薩を撮っている。
 彼の撮った写真には菩薩の微笑み、菩薩の優しさが写しこまれていた。土門は見えないものを写真で表現し、ここに写真家土門拳の真髄があった。原田氏もこれに倣って木喰撮影にのめって行ったのだろうか。
  だが、それは根本的に違っていた。
 木喰仏は最初から笑みを浮かべて彫られていたのである。
 そのまま撮れば十分であった。しかし原田氏は仏に魅せられたように撮り続ける。
 シャッターを切りながら土門拳に近づきたい一心ではなかったか。
  ほんのつかの間、原田氏の撮った木喰仏に接してみて、私もそうありたいと思った。Mokujikiharada



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2016.10.06

木喰上人の魅力その3

 前回までに木喰の魅力とは2つ挙げられた。
 1つは彼の作る木喰仏は微笑を浮かべていること。2つ目は上人が長命であったことである。
 それでは上人とはどんな人物だったのか。そしてその顔は。
 3つ目の魅力とはそのカリスマ性にある?ここはしっかりと時代を遡って木喰の魅力について探ってみたいと思う。
 その前に自画像を見つけた。
 姿は半僧半俗で、ひげ・髪を伸ばし、手には杖、身にはねずみ色の衣を着けていたという。
 この自画像は日比野秀男氏の著書「駿遠豆の木喰仏」の裏表紙にあった。

                 (自画像)Jigazo


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2016.10.05

木喰上人の魅力その2

 木喰は江戸時代中期享保3年(1718年)山梨県下部町古岡丸畑に伊藤家の二男として生まれた。
 享保時代といえば八代将軍吉宗の頃で時代劇江戸町奉行の大岡忠相でもお馴染みである。
 生まれてから50年の木喰の足跡は今でも明らかではない。
 22歳の時に出家し45歳の時木喰戒を受け、日本を回るという願をたてて56歳辺りから全国行脚に出たらしい。
 その間に浜松方面にも立ち寄り、今に残る仏像を彫っていたということである。
 木喰上人が掘谷の地へ来たのは寛政12年(1800)83歳の時だ。
 文化7年(1810年)93歳で没した。
 当時としてはなんと長命であったことか。
 その秘訣とは?ここにも木喰上人の魅力がある。
 写真は徳泉寺保存の十王坐像である。
 閻魔大王と同様怖い表情の中に笑みを含んでいる。
 この微妙な表情の変化は、喜び、怒り、悲しみなどの豊かな感情を示しているらしい。
 しかし、観賞する人の気持ちによっても表情は変化する、というより見え方が違うのだろう。
 木喰が長生きであったことから、多くの人と出会うことで人の喜怒哀楽を知り、彫りながら十王の表情が変化することを表現したのではないだろうか。

Jyuozazo_2



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2016.10.04

木喰上人の魅力その1

「木喰仏はいつも笑っている。私たちの喜怒哀楽の世界を超越しているようだ」と研究者の一人日比野秀男氏は自著「駿遠豆の木喰仏」の冒頭記している。
 前回ブログでも紹介した浜北区堀谷の徳泉寺の十王と、もう一体の像はどれも微笑が消えない。
 十王とは冥土の裁判官のようなもので、閻魔大王を中心にどこの寺でも安置されている。幼いころ悪いことをすると閻魔大王に舌を抜かれると親に云われ、以来閻魔さまと称し子供時代には恐れたものである。
 だがこの木喰像を見る限り、怖さとともにユーモラスな表情を見せ、かすかに笑みを浮かべている。
 この仏の微笑こそが木喰上人の魅力のひとつであるらしい。
                             
                             (閻魔大王)Enmasama_2



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2016.09.29

ショウ―ズカばばあを撮る

 三途の川のあたりで亡者の着物をはぎ取る婆さんのことで、奪衣婆ともいい、葬頭河婆と書き「ショウ―ズカばばあ」である。
 この婆の像が浜北区堀谷の寺に安置されている。木喰仏十体とともに自由に拝観ができる。
 私がここに至った経緯は、地元の写真家の刊行物を調べていた時の事、写真家故原田康次氏「木喰」写真集を目にしたことがきっかけであった。
 原田氏は本の中でこう書いている。
 ――片膝を立てた葬頭河婆の老いてなお、ふくよかな女体。掛けた衣から覗く凄惨な色香に私は思わずシャッターを切っていた。
 この言葉に触発され、早速、安置先である浜北区の徳泉寺へ向かった。
 同寺は臨済宗方広寺派に属し、現在は無人である。この地に江戸末期、木喰(もくじき)五行上人が83歳の時に立ち寄り、刻んだ像「十王と葬頭河婆」が残されているのだ。
 木喰上人作の像は「木喰仏」と総称され、屈託のない笑顔が特徴で、十王は紛れもない木喰の作とされている。
 そしてもう一体葬頭河婆の像は仏ではないのに地獄の笑いを見せている。
 いずれも本堂脇の保存施設内で安置されている。
 帰宅後はなぜか妙なものに憑りつかれたような気がして大人しくしていたが、堀谷の里の彼岸花がちらつき、ショウ―ズカばばあを思い出していた。
 

Mokujiki28

(下記写真は「木喰原田康二写真集」より)
Sozuka01_2


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